私のお寺では、昭和12年頃から火葬が始まり、次第に増えていきますが、成人の方の埋葬(土葬)での葬儀の最後が昭和40年で1軒行われています。(昭和39年は2軒、昭和37年は3軒)私が生まれた頃(昭和31年)から境内墓地の整備が持ち上がり、昭和40年頃に現在の形になりました。
埋葬の時の葬儀は、本堂の前の境内で行われていたようで、野仏(のぶつ)と呼ばれる来迎図の掛け軸をご本尊としてお迎えして、真宗高田派の伝統である、野袈裟(のげさ)と呼ばれる七条袈裟の幅の正絹に名号が書かれているものを棺桶にかぶせて葬儀をしていたようです。
火葬での葬儀は、今から10年ほど前までは、骨葬(こつそう)と呼ばれる火葬してから葬儀をする形でした。これまで、自宅での葬儀やお寺での葬儀が、昭和60年頃に、隣の市に葬祭ホールができ年々ホールでの葬儀が増えて、10年ほど前に市内に葬儀ホールができると今は全て葬儀ホールでの葬儀になりました。また10年前に市町村の合併が行われ、これまで骨葬での葬儀が、火葬前に葬儀をすることになり、火葬時間に合わせて葬儀が始まることになりました。
お通夜については以前にこのブログでも書きましたが、前々住職の代までは僧侶にお勤めを依頼されることはありませんでした。組内(町内会)が中心となり喪家になりかわり通夜から葬儀まで取り仕切って役割を果たされていました。お寺のある組内でも亡くなられた方のご自宅でのお通夜に坊守が組内の一員としてお勤めに参加していました。前住職の代になり、組内でお通夜や葬儀での役割を担うことができない地域が出てきて、お通夜でのお勤めを依頼されるようになりました。お通夜のお勤めに何をお勤めするか当時の住職と話し合い、「阿弥陀経」・「文類偈」・「五首和讃」・「短念仏」・「廻向文」として今に至ります。
葬儀式は、お寺での葬儀(骨葬)の流れに従っています。本堂では、最初に内陣に住職や法中が出勤して「阿弥陀経」・「短念仏」・「廻向文」・「歎仏偈」・「短念仏」・「廻向文」・「引声念仏」をお勤めし終わると、大間に設えた祭壇の前に、住職と法中が移動して着座し、「勧衆偈」・住職の焼香・弔辞や弔電の拝読の後、「正信偈」が始まると喪主の焼香・親族の焼香・参列者の焼香が続きます。お勤めは、「正信偈」・「三重念仏一首和讃」・「引声念仏」で終わり、最後に喪主と親族代表の野礼(のれい)があり、僧侶が退出します。自宅で葬儀の場合も、葬儀ホールでの葬儀の場合も同じ形で阿弥陀仏にひとしく摂取されている恩徳に感謝できるよう心がけています。その後、現在は出棺の準備でご往生された方へお花でのお別れがあり、火葬場へ出発します。
現在では、僧侶を必要としない葬儀もありますし葬儀自体を省略する場合もあるようです。その理由にはさまざまなことがあるのでしょうが、大切な方がご往生されたことを縁として仏法に遇うことや大切な方を亡くされた喪失感や悲しみの中にあるご遺族の心情についは個人的なことと考えられているようです。
一度失ったコミュニティは元に戻りませんので、葬儀が社会と関わる役割(公益)をもう一度見直しながら、新しい役割(公益)が構築できるか考えていきたいと思います。