ひとくち法話

篤く三宝を敬え 憲法十七条
聖徳太子制定の憲法第二条は、これもよく知られた
「篤く三宝を敬え、三宝とは仏法僧なり」とお示しになりました。

親鸞聖人も『皇太子聖徳奉讃』の73首に
憲章の第二にのたまはく(けんしょうのだいににのたまはく)
  三宝にあつく恭敬せよ(さんぽうにあつくくぎょうせよ)
  四生のついのよりどころ(ししょうのついのよりどころ)
  万国たすけの棟梁なり(まんごくたすけのとうりょうなり)
と述べられています。
四生〔胎生(たいしょう)、卵生(らんしょう)、湿生(しっしょう)、化生(けしょう)〕とは生きとし生けるものすべてという意味です。三宝の仏は法をさとり実証することのできた人、すなわち覚者のこと、法とは人のすべてが尊敬し信奉すべき真理の道をいい、僧とは僧伽(そうが)の略で仏と法を信奉する人々という意味です。
太子が第2条に掲げられたお心は生きとし生けるものの帰すべきところ、あらゆる国の依るべき心が示され、すべての人が我執(がしゅう)を離れての生き方を教えています。
「それ三宝に帰せずんば、何を以てか枉(まが)れるを直さむ」とこの条文の最後にお示しになっていますが、それは仏法僧(ぶっぽうそう)の三宝に帰依(きえ)し敬うことによって、己の枉った根性をまっすぐに正すことができると教えられているのです。
三宝に帰依し、三法を敬うことによって、和してゆく世界、そこに見いだされる世界を仏国土(ぶっこくど)というのです。

 

ひとくち法話

和を以て貴しとす 憲法十七条
聖徳太子ご生涯の数々の業績の中で、特筆すべきは我が国で初めて憲法を制定された事であります。
『親鸞聖人の皇太子聖徳奉賛』第57首に
太子の御とし三十三(たいしのおんとしさんじゅうさん)
なつ四月にはじめてぞ(なつしがつにはじめてぞ)
憲法製して十七条(けんぽうせいしてじゅうしちじょう)
御てにて書して奏せしむ(みてにてしょしてそうせしむ)

憲法とは国家のあるべき姿を成文化したものであり、われわれ衆生のために掲げられた規則です。
その第1条に、どなたでもご存じの
「和を以て貴しと為し、忤うこと無きを宗と為よ(わをもってとうとしとなし、さからうことなきをむねとせよ)」とあります。

平和を最も大切にし、抗争しないことを規範とせよ、という意味であります。これは和国の実現を天下に示したものであり、憲法の根幹をなすものであります。
私たちがこの世で生きていく上で、和より大切なものはない。みんなが平和に生活することは、いつの世いかなる所であっても、願わずにはおれないことです。
しかし、現実には、地球のどこかで戦火の消えることがなく不安におびえている人々がいるのも事実です。

内外をあげて困難な時局に際し、政治の大本を示された太子が、和を憲法の第1条に示されたことに注目したいものであります。

 

ひとくち法話

お寺に太子のお軸があるわけ

親鸞聖人は、修行が行き詰まると、聖徳太子のご示現におたずねされたという記録が残っています。
その1は、19歳の時に太子の御廟である磯長(しなが)に参籠(さんろう)されたという記録です。2日目の夜に「親鸞よ、諦(あき)らかに聞きなさい。汝の寿命はあと十余歳です。命終わったら速やかに浄土に往生させましょう」というきびしいものでした。聖人はおどろいて、心を新にして再び比叡山に登って修行に励まれました。
その2は、29歳の時です。いよいよ修行に行き詰まって、太子の創建といわれる京都の六角堂に籠(こも)られて、太子のご示現に賭けられました。その95日のあかつきにようやく太子が観音菩薩の姿であらわれて、「後世(ごせ)のことは、法然上人を訪ねなさい」ということでした。
このように聖人は「和国の教主 聖徳王」(前項参照)、つまり聖徳太子は、日本のお釈迦さまですと尊崇(そんすう)されて、『皇太子聖徳奉讃』という和讃を百首程もお作りになっております。
そこで、真宗のお寺には、この聖人のお心をいただいて太子のお軸を掛けているのです。
註 ご示現とは、「仏・菩薩が衆生(しゅじょう)救済」のため、いろいろ姿をかえてこの世にあらわれること」

※妙華寺では、本堂向かって右余間に聖徳太子の像を荘厳しています。

ひとくち法話

和国の教主 聖徳王(わこくのきょうしゅ しょうとくおう)
仏教の開祖は、紀元前5世紀頃にインドで出生されたお釈迦(しゃか)さまです。この仏教が日本に伝来したのは、百済(くだら)(朝鮮半島にあった国)の聖明王(せいめいおう)が、仏像と経論を日本の朝廷に贈ったという欽明(きんめい)天皇の538年でした。
聖徳太子は、この経論を読んで、仏教こそ国境や民族の違いを越えた人類共通の世界宗教であると、自ら法華経(ほっけきょう)、勝鬘経(しょうまんぎょう)、維摩経(ゆいまきょう)という三経を注釈されました。しかも太子は推古(すいこ)天皇のご前で、自らそれを講讃(こうさん)されるという力のいれようでした。
親鸞聖人は、太子がこのように生涯かけて仏法興隆(ぶっぽうこうりゅう)に尽力され、わが国を仏教国として推し進められた功を
和国の教主聖徳王 広大恩徳謝しがたし (わこくのきょうしゅしょうとくおう こうだいおんどくしゃしがたし)
一心に帰命したてまつり 奉讃不退ならしめよ (いっしんにきみょうしたてまつり ほうさんふたいならしめよ)
『皇太子聖徳奉讃』と讃歎(さんだん)されました。このおこころをわかりやすくいえば「聖徳太子は日本のお釈迦さまです。仏の教えを我が国の宗教として定着させるために、自ら経典を註釈し法隆寺や四天王寺を建立し政治の中に仏の教えを正しくとりいれて下さった努力や功績は広大で、報謝のすべさえないほどです。
この上は、私たち国民は挙げて仏法をたずね、一心に阿弥陀仏の本願を聞信(もんしん)して、お念仏をよろこぶ身にならせていただきましょう。太子のご恩を忘れてはなりません」という意味であります。

ひとくち法話

太子のご功績(たいしのごこうせき)
憲法17条の第2条に「篤く三宝を敬え、三宝とは仏法僧なり(あつくさんぽうをうやまえ、さんぽうとはぶっぽうそうなり)」とあります。聖徳太子(しょうとくたいし)は三宝を敬うことによって、みんなが平和に生きる世界、仏国をめざされたのでした。
太子の仏教に対する功績としては、四天王寺(してんのうじ)や法隆寺(ほうりゅうじ)などを建立されたことと、もうひとつは勝鬘経(しょうまんぎょう)と法華経(ほっけきょう)を講経され維摩経(ゆいまきょう)を加えた注釈書、三経義疏(さんぎょうぎしょ)を書かれたことは特筆すべきことであります。
太子が政治的に活躍されたのは28歳から39歳ごろまでであります。三経義疏を書かれたのは、36歳から42歳までの間であると伝えられています。太子は49歳で亡くなられますが、晩年は法隆寺の夢殿(ゆめどの)にこもられ、この三経義疏の著述に没頭されたと言われています。
最澄(さいちょう)が法華経を中心とする日本天台宗(てんだいしゅう)を開宗されたのも、太子の思想を受け継ごうとされたものでした。そして親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、太子を「和国の教主」と仰がれ讃えられました。
『皇太子聖徳奉讃(こうたいししょうとくほうさん)』第1首に
日本国帰命聖徳太子 仏法弘興の恩ふかし (にっぽんこくきみょうしょうとくたいし ぶっぽうぐこうのおんふかし)
有情救済の慈悲ひろし 奉讃不退ならしめよ (うじょうくさいのじひひろし ほうさんふたいならしめよ)
と、あります。聖徳太子は阿弥陀仏(あみだぶつ)が、日本の地に現れてくださったのです。その仏さまの教えである念仏に出会って私たちは救われていくのですと親鸞聖人が導いてくださいました。私たちは太子のご恩を讃え、おこたらずに念仏を称えましょう。

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ひとくち法話 聖徳太子2

日本最初の摂政(にほんさいしょのせっしょう)
太子が15歳の時、「法興(ほうこう)」と年号が改まりました。仏教の教えからつけられたのです。
しかし、崇峻天皇(すしゅんてんのう)5年(592)、執政の衝突から蘇我馬子(そがのうまこ)に天皇が暗殺される事件が起こりました。このような複雑な時代の中で、太子は成長されていかれたのでした。
次に即位されたのは、女帝の推古天皇(すいこてんのう)です。そこで太子(20歳)が摂政として選ばれました。
『皇太子聖徳奉讃(こうたいししょうとくほうさん)』(第56首)に
儲君(ちょくん)のくらいをさづけしに 仏法興隆(ぶっぽうこうりゅう)のためにとて
  再三固辞(さいさんこじ)せしめたまひしに 天皇(てんのう)これをゆるされず
とあります。「儲君」とは皇太子におなりになる位です。太子は仏法興隆のためには役立たないと「再三かたく辞退されましたが、天皇はこれを許されず」ということで、摂政(天皇をお助けするお役目)になられたのです。我が国では聖徳太子が最初です。
太子には「豊聡耳(とよとみみ)」というお名前があります。よきさとい耳を持っておられたという意味です。また一度に8人の訴えを聞かれたので「八耳(はちじ)」の王ともいわれました。人々の訴えを正しく理解するためにしっかりと本音を聞かなければならないとして、私たち人間の心を照らし出すほとけの教えに、いつも耳をかたむけられたのでした。
このような聖徳太子の善政によって当時の内乱は見事に治まったのでありました。

ひとくち法話

ひとくち法話―聖徳太子―

聖徳太子と親鸞聖人
真宗のお寺には、本堂右余間に「七高僧(しちこうそう)」と「聖徳太子(しょうとくたいし)」の画像が並んで安置されています。

これは親鸞聖人(しんらんしょうにん)が聖徳太子を日本のお釈迦(しゃか)さまと仰がれ、太子の仏徳(ぶっとく)を讃歎(さんだん)されたからです。
『皇太子聖徳奉讃(こうたいししょうとくほうさん)』には
大慈救世聖徳皇(だいじくぜしょうとくおう)
父のごとくにおはします
大悲救世観世音(だいひくぜかんぜおん)
母のごとくにおはします
と、あります。聖人は幼少の頃、父と別れ、母と別れられました。

けれども聖徳太子さまを父のように、観音菩薩さまを母のようにお慕いして、父母にあっていますと尊ばれたのでした。
御 生 涯
太子は574年、用明天皇(ようめいてんのう)の御子(みこ)として生まれました。その名を厩戸皇子(うまやどのおうじ)、あるいは豊聡耳命(とよとみみのみとこ)といわれました。祖父は欽明天皇(きんめいてんのう)であり、母は蘇我稲目(そがのいなめ)の子の堅塩媛(きたしひめ)でした。
稲目は欽明天皇以上に熱烈な仏教の崇拝者でありました。そのようなご縁で太子は幼い頃から父や母によって仏教崇拝の心を深く植え付けられました。父の用明天皇が即位されて、まもなく亡くなられると、崇仏派の蘇我氏と、排仏派の物部氏(もののべし)との間に戦争が起こったのです。
この時、太子はまだ14歳でしたが、四天王の木像を作り、戦勝を誓われました。戦争は蘇我側の勝利に終わり、崇峻天皇(すしゅんてんのう)が皇位につかれたのでした。

ひとくち法話

―お釈迦様のご生涯―
14釈尊御入滅(しゃくそんごにゅうめつ)
雨季がすんで、バイシャリーの街で托鉢(たくはつ)から帰り食事をすませるとお釈迦(しゃか)さまは、バイシャリーに住むすべての修行僧を集め、「自分 は余命いくばくもないが、残された僧たちはおこたることなく修行をしなさい」と諭されました。そしていよいよこの街を去られる時に、はるかにバイシャリーの街を見て、「これがバイシャリーの見納めになるだろう。さあ、阿難(あなん)よ、旅に出よう」といって出発されました。
かねてからお釈迦さまを尊敬していた鍛冶屋チュンダの供養を受けられたお釈迦さまは、多くの美味しい食事の中のきのこ料理が禍して、激しい下痢と腹痛を伴う重い病になりました。お釈迦さまはこの痛みをこらえつつ、阿難とともにクシナガラに入られましたが、ついに「阿難よ、私は疲れた。休みたい」と言われ、サーラ樹の間に身を横たえ、頭を北に、顔を西に、右脇腹を下にして足を重ねられました。その時、サーラ樹は時ならず色が変わったといわれます。お釈迦さまの臨終が迫った時、悲しみの極みにあった弟子たちに「もろもろの事象は移ろい無常である。放逸に堕することなく、修行せよ」と諭され、悲痛な思いで号泣する阿難に対し、これまでの奉仕を謝しそのまま静かに80年の生涯を終えられました。時に2月15日の満月の日でした。
完全な煩悩の滅したさとりのことを涅槃といい、お釈迦さまの入滅を涅槃会(ねはんえ)として、3月15日には高田本山では大きな涅槃図を掲げてお勤めをいたします。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

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ひとくち法話

―お釈迦様のご生涯―
13自灯明、法灯明(じとうみょう、ほうとうみょう)
お釈迦(しゃか)さまは悟(さと)られてから40数年、ガンジス河の流域で教えを説いてまわられましたが、最後は故郷のカピラ城を目指しての教化の旅でありました。
今その疲れ切った老躯(ろうく)をおし、なおインドの大地を歩むお釈迦さまの姿に、私たちは言いようのない畏敬(いけい)と真実への燃えるような熱情に驚嘆し、かえってそこにまた親愛の情さえおぼえます。お釈迦さまはガンジス河を北にわたり、そしてバイシャリーという街へはいられました。そして、阿難をはじめとする弟子たちに、説法をして過ごされましたが、お釈迦さまはここで激痛をともなった重い病気にかかられました。その苦痛を堪え忍ぶ中で、最後の教えを請う阿難に「私は誰彼の差別なく教えを説いてきた。私は年月を重ねて老衰し、このお身はあたかも古ぼけた車が皮紐の助けによってようやく動いているよう なものだ。阿難よ、それゆえ私の死後も他を頼りとせず、誰もが、ただ自己と法とのみをよりどころとせねばならない」と説かれました。これが「自らを灯明とせよ。法を灯明とせよ」と言う有名な教えです。親鸞聖人もこの教えを心とされ、「自灯明」のこころを「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)によって、仏のいのちを我が命とする輝かしいいのちを果たす人間となれ」、また「法灯明」のこころを「仏の教える真実の道を、己の計(はか)らいを捨てて教えのままに生きよ」と教えられました。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

ひとくち法話

―お釈迦様のご生涯―
12お浄土への導き『阿弥陀経』(おじょうどへのみちびき『あみだきょう』)
お釈迦(しゃか)さまのご一生はガンジス河流域を巡って各地で教えを説かれました。インドには3ヶ月も雨季がありますから、そんなときには祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)などで説法をされ『阿弥陀経』もそこで説かれました。
『阿弥陀経』は私たちには大変親しいお経です。これはお釈迦さまが74歳のときに、舎利弗はじめ1250人の弟子や、生きる苦しみ、悩み、死んでいく不安にさいなまれている人々に、たとえ死んでいっても、お先真っ暗ではないよ、こんなすばらしい世界があるんだよと、大きく三つのことを説かれました。
第一は、お浄土には池に車輪のような蓮の花が一杯命を輝かせ、すばらしい音楽がどこからともなく聞こえ、こよない鳥の鳴き声が聞こえてくる。それはみな如来(にょらい)が今も説法していてくださることなんだよ。第二は、そのお浄土に生まれるには、ただ仏さまが「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)」と言葉になって呼びかけてくださる、それに応えて私が「南無阿弥陀仏」と申す時、その声は私からでたのではなく、仏さまの声の山彦と考えてお念仏しなさい。そうしたら、お浄土に生まれることができる。第三は、以上のことは私の独断ではなく、東、南、西、北、下、上方のあらゆる世界の諸仏がたも、私の説いたことをほめたたえてくださっています。
これらを聞いていた人々は、心に一杯の歓びをいただき、お釈迦さまにお礼をして去っていきました。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

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