寺報の準備

寺報の準備
妙華寺では、年1度、お寺の行事報告や来年の予定をお同行様にお伝えする「寺報」を、お世話方様のいらっしゃる地区には、12月の報恩講の案内と一緒に配布しています。
少し離れたお同行様には郵送しています。
今年は、妙華寺の親鸞聖人ご誕生850年・立教開宗800年の奉讃法会の報告も秋彼岸の頃から随時お送りして、まだの皆様には寺報と一緒に郵送する予定です。

今回、寺報と同封しますチラシは、来年5月13日のお寺の講演会です。津市久居アルスプラザの「ときの風ホール」をお借りして、「親なきあと」のことを、一般財団法人 お寺と教会の親なきあと相談室の理事&アドバイザーの藤井奈緒さんに講演していただきます。
講題は、~障がいのある子とその きょうだい が笑顔で暮らしていけるよう~「今、私たちにできること。」 親なきあと への備えについて です。

講演の後は、講師の藤井奈緒さんと、既に「親なきあと」問題について津市内で活動されていらっしゃる「一般社団法人みえ障害者の親なきあと相談室」の理事長の鈴木伸行さんをお迎えして座談会を予定しています。

「親なきあと」問題
  みなさん「親なきあと」と言う言葉をお聞きされたことはありますか。
 住職は、令和2年に、「福祉仏教」の講座を受講して知りました。
 障がいや引きこもりの子どもさんを持つ親御さんが心配されている問題です。
 問題は多岐にわたり、専門的な知識が必要な分野もありますが、
 心配されていらっしゃる親御さんや当事者の側で
 耳を傾ける(傾聴する)ことで寄り添うこともできることを知り、
 (一財)「お寺と教会の親なき相談室」の活動に賛同し
 「津市妙華寺支部」として活動をしていきたいと思っています。
 また、地域で同じ思いを持つ方々と共に学び・活動ができればと思っています。

お同行の皆様にも是非、「親なきあと」問題についてお考えいただく機会にしていただきたいと思います。

また、報恩講の法話の後、「お坊さん教えて」としてご法話いただきました布教使様と一緒に、仏教の教え・真宗の教え・親鸞さんのことなど、何気なく頭の中に入っていることをもう一度しっかり自分の中で学ぶ機会を考えています。知らないことが恥ずかしいことでなく、いつからでも学ぶ気持ちを忘れていることが恥ずかしいことです。
 高田本山では、来年5月21日から28日まで親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年他の奉讃法会も予定されています。この機会に、しっかりと仏教の教え・真宗の教え・親鸞さんのことを学びませんか。どなたでも歓迎です。ご参加ください。

親鸞聖人

親鸞聖人の御生涯【浄土真宗本願寺派のHPから掲載】

平安時代も終わりに近い承安(じょうあん)3年(1173)の春、親鸞聖人は京都の日野の里で誕生された。父は藤原氏の流れをくむ日野有範(ひのありのり)、母は吉光女と伝える。聖人は養和(ようわ)元年(1181)9歳の春、伯父の日野範綱(のりつな)にともなわれて、慈円和尚(じえんかしょう)のもとで出家・得度(とくど)をされ、範宴(はんねん)と名のられた。ついで比叡山にのぼられ、主に横川(よかわ)の首楞厳院(しゅりょうごんいん)で不断念仏を修する堂僧(どうそう)として、20年の間、ひたすら「生死いづべき道」を求めて厳しい学問と修行に励まれた。
しかし建仁(けんにん)元年(1201)聖人29歳のとき、叡山では悟りに至る道を見出すことができなかったことから、ついに山を下り、京都の六角堂(ろっかくどう)に100日間の参籠(さんろう)をされた。尊敬する聖徳太子に今後の歩むべき道を仰ぐためであった。95日目の暁、聖人は太子の本地である救世観音(くせかんのん)から夢告(むこく)を得られ、東山の吉水(よしみず)で本願念仏の教えを説かれていた法然聖人(ほうねんしょうにん)の草庵を訪ねられた。やはり100日の間、聖人のもとへ通いつづけ、ついに「法然聖人にだまされて地獄に堕ちても後悔しない」とまで思い定め、本願を信じ念仏する身となられた。
法然聖人の弟子となられてからさらに聞法(もんぼう)と研学に励まれた聖人は、法然聖人の主著である『選択集(せんじゃくしゅう)』と真影(しんねい)を写すことを許され、綽空(しゃっくう)の名を善信(ぜんしん)と改められた。そのころ法然聖人の開かれた浄土教に対して、旧仏教教団から激しい非難が出され、ついに承元(じょうげん)元年(1207)専修(せんじゅ)念仏が停止(ちょうじ)された。法然聖人や親鸞聖人などの師弟が罪科に処せられ、聖人は越後(えちご 新潟県)に流罪。これを機に愚禿親鸞(ぐとくしんらん)と名のられ非僧非俗(ひそうひぞく)の立場に立たれた。
このころ三善為教(みよしためのり)の娘・恵信尼(えしんに)さまと結婚、男女6人の子女をもうけられ、在俗のままで念仏の生活を営まれた。建保(けんぽう)2年(1214)42歳の時、妻子とともに越後から関東に赴かれ、常陸(ひたち 茨城県)の小島(おじま)や稲田(いなだ)の草庵を中心として、自ら信じる本願念仏の喜びを伝え、多くの念仏者を育てられた。元仁(げんにん)元年(1224)ごろ、浄土真宗の教えを体系的に述べられた畢生(ひっせい)の大著『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』を著された。
嘉禎(かてい)元年(1235)63歳のころ、関東20年の教化(きょうけ)を終えられて、妻子を伴って京都に帰られた。『教行信証』の完成のためともいわれ、主に五条西洞院(にしのとういん)に住まわれた。京都では晩年まで『教行信証』を添削されるとともに、「和讃」など数多くの書物を著され、関東から訪ねてくる門弟たちに本願のこころを伝えられたり、書簡で他力念仏の質問に答えられた。
弘長(こうちょう)2年11月28日(新暦1263年1月16日)、聖人は三条富小路(とみのこうじ)にある弟尋有の善法坊(ぜんぽうぼう)で往生の素懐(そかい)を遂げられた。90歳であった。

 

【高田での伝承】
・建歴(けんれき)二年聖人四十歳の頃、配流が解かれ、関東へ行かれる道すがら、信濃の善光寺へお参りし、善光寺聖の側面も持ちながら常陸の国に移られた。
・関東での布教の中、多くの念仏者が育てられ高田の本寺が建立された。そこに聖人感得の善光寺式一光三尊佛がご本尊として安置された。
・関東から都に帰られる中、文暦(ぶんれき)二年三河の妙源寺に逗留された。三河は、後に高田の顕智(けんち)上人などが精力的に布教された場所でもある。
・聖人のご往生の葬送、廟堂の建立には、高田の顕智などが中心に取り仕切った。

 

報恩講

今年の報恩講
妙華寺の地域周辺の真宗寺院は、各寺院の報恩講が勤まっています。コロナ前までは、妙華寺の所属する組(グループ)は6ケ寺が、毎年、同じ時期ですが報恩講のお勤めをするお寺に集まって、親鸞聖人のご遺徳を讃歎していました。讃歎する心は同じですが、それぞれの寺院の趣きがあり、楽しみでした。
3年前から新型コロナウィルス感染症のことで、各寺院の報恩講には出仕せず、それぞれの寺院だけでお勤めすることになり少し寂しく感じています。

今年の妙華寺の報恩講は、12月4日の13時30分からです。
ご法話は、豊橋市の正太寺の大河戸悟道師です。
また、今年は ご法話の後、布教使さんに、仏教・真宗の教えでわかりにくいこと、自分の中で疑問など気軽におたずねいただける場を考える「お坊さん教えて」の時間を用意します。ご法話の後も引き続き一座を倶にお造りいただければと願っています。

どうかお楽しみに

報恩講のことで、前々住職や前住職から聞いたことを改めて思い出すと、妙華寺では戦前まで報恩講を5日間お勤めしていたそうです。その間のお非時(お昼の食事)は、当時、小学校に通っていた前坊守や姉妹、他の小学生も給食がなかったのでとても楽しみだったと聞いています。戦後から3日間になり、昭和40年代に2日間になり、平成12年から1日になりました。

報恩講では、聴聞にこられる皆さんにお非時(お昼)を用意していますが、新型コロナウィルス感染症の感染拡大で、令和元年の報恩講から、集うことが難しく、お非時も、パック詰めの弁当を手渡す方法で皆が一緒に食事をすることも難しくなりました。
新型コロナウィルス感染症のことを考えると、残念ですが、今年も、お非時は、市販のお弁当を手渡す方法に決めました。

教学院研究発表大会

教学院研究発表大会
今年も聴講できる機会をいただきました。ことしは4名の研究員の発表で、その1人が妙華寺の衆徒でした。
衆徒の発表は「真宗伝道学における寺院活動~北米海外寺院の伝道~」でした。大学院での研究テーマの「伝道学としての寺院活動」の海外寺院の寺院活動の発表でした。
日本の仏教寺院が海外に開教していく背景には、日本からの移民と現地でのコミュニティに関わることです。また、キリスト教圏での活動で仏教自体の理解も少ないことから、いろいろな宗派が力を合わしているところは、日本の寺院活動とは少し違う点でもあるようです。また、宗教者とメンバー(檀信徒)の関係も違いがあるようです。

他3名の研究員の発表も考えさせられる課題でありました。

 【中川鳳瑞(結幾)からの案内】
第10期 真宗入門講座『親鸞聖人伝絵』に見る聖人の生涯の第3回 令和5年3月15日(水)13時30分から15時30分 高田開館ホール にて「吉水入室」の段を担当します。

事前の申込が必要ですのでご興味のある方は、高田本山 教学院まで、電話059-236-3088 までお申し込みください(平日9時から11時の間)

文化の日

文化の日
久居地域文化祭が津市久居アルスプラザで開催されています。
以前は、文化の日を中心に久居中央公民館で3日間でしたが、会場が新しくなったことや、コロナ下のこともあるのでしょうか10月23日から12日間にわたっての開催です。
地域には独自の文化もありますので大切に伝えていきたいのですが、次を担う若い方々が少なくなっているも現状です。若い方の新しい文化(カルチャー)も含めていくことも1つの方法かもわかりません。


そしてこれまでの伝統文化が次世代に伝わらないのは、どうしてと考えることも必要です。
私(住職)が久居地域文化祭で担当しているのは、茶道です。生活の中に溶け込んだ日本の総合文化とも言われますが、現在の生活様式は、これまでとまったく違います。炭を使っての生活も、畳に座る生活も少なくなりました。床の間がある部屋も庭の形も変化しています。一服のお茶で憩う時間もないのが実状ではないでしょうか。

それでも、ふとした時、一服のお茶をいただく機会があったりしませんか。
お茶は美味しく飲むものですので、作法を知らないからお茶を美味しく飲めないことはありません。でも作法を知っているともっと美味しく飲むことができるのは間違いないです。
それを伝えたいと思っています。

そして、私(住職)は、伝統文化の現状と仏教の現状も同じ危機感があるように感じています。仏教のこと、真宗のこと、親鸞さんのこと、仏壇のこと、先祖のことなんとなくこれまで祖父母や父母から聞いてきたこと、やってきたことを見てきたことで済ましてしまっている自分でないでしょうか。作法を知らなくてもお茶を飲むことができるのと同様に、仏事は、仏教のこと、真宗のことを知らなくてもお勤めできます。でも、この仏事の本当の意味を知ってお勤めすると、私自身の心がより豊かな心に耕されていくように思います。

供養

供養
恭敬について考える機会をいただいています。考える時間がまだ十分でありません、そして、まとまった形ではありませんが、今の思いをHPに記載します。
いろんな想いや考えがあるとおもいますのでお教えいただければと思います。

皆さんは、「供養」の言葉から感じることは何でしょうか。
「先祖(亡くなった方)を供養する」など良く使いますね。
辞書を調べますと、
供養 死者の霊に供え物をして、死者の冥福を祈ること【岩波国語辞典第6版】
供養 敬いの心を持って奉仕すること 三宝や父母・師長などに身・口・意の三業をもって供物をささげること【浄土真宗辞典】
あります。

私(住職)は、仏教では、「三宝(さんぽう)=仏・法・僧を敬う心を持って奉仕すること」から始まっているのだと感じます。そして長い年月の中で父母・師長、死者を敬う心を持って奉仕(供物をささげること)や祈ることが含まれてきたように感じています。

真宗では、「供養」と言う言葉をあまり使っていません。それは、多くの方が「死者の霊に供え物をして、死者の冥福を祈ること」のように解釈しているからかもわかりません。

私(住職)の中では、「供養」が仏教的な意味合いから、道徳的な意味合いに替わってきているからだと思っています。

では、どのようにお伝えしていくのか 大切な方のいのち終える姿を通して、仏教の基本の「三宝(さんぽう)=仏・法・僧を敬う心を持って奉仕すること」を伝えていくかは難しい課題です。

高田の鑑学の川瀬和敬先生が「供養と恭敬」について書かれた著書がありました。

恭敬 つつしみ尊敬する意。『涅槃経』には「懺愧(ざんぎ) あるがゆえに、すなはち父母・師長を恭敬す」『高僧和讃』には「恭敬の心に執持して 弥陀の名号称すべし」【浄土真宗辞典】

『浄土高僧和讃』の「恭敬の心に執持して 弥陀の名号称すべし」
の「恭敬」の【左訓】「つつしみ・うやまう」「小乗おば供養という、大乗おば恭敬という」

恭は、自分を謙遜すること、敬は法を尊敬すること、これによって機を信じ法を信じる信心のすがたとみます。

『十住毘婆沙論』「釈願文」第五の初めに、
小乗の法をもって衆生を教化するを供養という、(中略)大乗の法をもって衆生を教化するを名づけて恭敬となす。

私(住職)は、「供養と恭敬」を紹介しながらお伝えしていますが、伝わっているか心許ない気持ちです。

いろんな想いや考えがあるとおもいますのでお教えいただければと思います。

 

こころない言葉

こころない言葉
社会でも匿名で誹謗・中傷することが問題となっています。
匿名でなく面と向かっての非難の言葉も浴びることもあります。
私もこれまでの人生で、他者に誹謗・中傷してきたことも1つや2つではなかったと反省しながら、どうして、こころない言葉を発してしまうのでしょう。

仏教に「正語(しょうご)」と言う言葉があります。
「苦を滅する方法として」私が行う行為として、八正道(8の道)の1つです。
③正語(しょうご) 正しい言葉を使うということ。「正見」に基づき、正しく美しい言葉を使うことが大事。嘘、悪口、飾った言葉、事実と異なることなど口にしない。

頭の中でわかっているけど、社会生活をする中では難しいと感じるのは私(住職)だけでしょうか。仏教の教えや真宗の教えを知っているつもりですが、本当に学んだことがあったのでしょうか。学生でないから学ぶ必要がないなんては思いませんが、いくつになってからも学ぶことは大切だと感じます。
仏教のこと・浄土のこと・親鸞さんのことを聴いていく「場」が、お寺だと思います。

10月のおてらおやつクラブ

10月のおてらおやつクラブ

7月・8月・9月とおてらおやつクラブの報告を、HPでしていませんでしたが、毎月
支援団体様へ「お供え」の「おすそ分け」をさせていただいていました。
10月も支援団体様に「お供え」を「おすそ分け」させていただくことができました。

また、年2度回収の古本勧進での古本も募集しています。
今回は正月末までに集まった古本を寄付させていただきます。
不要になりました古本がありましたらいつでもお寺にお持ち込みください。
対象の本は、裏表紙にバーコードのあります文庫本・新書本・単行本です。
申し訳ございませんが、週刊誌・雑誌・百科事典・全集は対象外です。
本以外、書き損じのハガキ・不要なCDも受け付けています。

【おてらおやつクラブHPから】
現在
「認定NPO法人おてらおやつクラブ(奈良県田原本町 代表理事 松島靖朗)は、2022年4月~2023年3月の期間、おてらおやつクラブの活動を紹介する巡回展を開催します。全国12か所の寺院・関係施設を会場とし、1年かけて月ごとに巡回していく本展示会。当活動の内容やその背景にある「子どもの貧困問題」の実態について多くの方に知っていただく機会をつくります」((https://otera-oyatsu.club/2022/04/traveling-exhibition/ 参照 2022年4月29日))

広報つ10月16日号 「歴史散歩」で妙華寺 本堂が紹介されました

広報つ10月16日号の「歴史散歩194」のコーナーで、国の登録文化財の「妙華寺 本堂」が紹介されました。改めて振り返ってみたいと思います。


「妙華寺 本堂」が国登録文化財(建造物)に登録されたのは、平成16年11月8日です。


妙華寺としては、そのことを記念して、平成17年、当時早稲田大学文学部教授(専門は日本近代史)の深谷克己先生に「妙華寺と久居藩世界」の原稿を賜り「法苑院妙華寺縁起」の冊子を作成しました。


その後、平成28年には、登録文化財の説明文をを当時、(一社)お寺の未来の松﨑香織さんに英訳していただきした。


平成30年3月には、 一般社団法人三重県建築士会様が、多くの皆様に登録有形文化財の文化的価値、観光資源的価値を認識いただき、登録有形文化財のさらなる活用と地域の活性化の一助としてトレーディングカードを作成されました。三重県内にある多くの登録有形文化財の一つであります「妙華寺本堂」のトレーディングカードも作成していただきました。

他にも、東海TV「スタイル+」やZTVの市政案内。季刊誌の「すばらしきみえ」などで紹介されています。思い出深いのは、東海TVの「スタイル+」で紹介していただいた時、犬好きの照英さんが、犬と戯れているカットが終了間際に放送されたことで、愛犬家が愛知県や三重県の他市町村から犬を見に訪ねてこられたことは驚きでした。

※つ広報10月16日号の「歴史散歩194」のコーナーで、国の登録文化財の「妙華寺 本堂」が紹介されました文書の冒頭の所在地が「津市元町」とありますが「津市二ノ町」が正しいです。

津市刊行ボランティアガイドネット・ワーク協議会 現地研修

津市刊行ボランティアガイドネット・ワーク協議会 現地研修
10月13日地域の「久居城下案内人の会」が、津市内の観光ボランティアガイド活動をされている13団体の現地研修の一カ所として妙華寺に2班に分かれて30名ほどお越しいただきました。

妙華寺には、本堂の屋根から、空を飛ぶことを夢見た藩士(国友貢)の伝承があります。
それを「久居城下案内人の会」で紙芝居にしてガイドをされています。
今年の2月にはその看板を作成し、山門の右側に設置していただきました。

この「飛行機の失敗」の伝承が、長浜市の国友村(鉄砲鍛冶集団)で見つかった「日本で最古の飛行機の詳細図」と、「国友」を縁として交流が生まれようとしています。

令和5年2月4日(土)から3月26日(日)の間、長浜城歴史博物館で(仮題)「国友一貫齋~発明と夢~」の企画展の中のコラムの1つとして「飛行機の失敗」を紹介したいと学芸員の方から連絡を受けています。滋賀県の長浜市は盆梅が有名ですので寒い時期ですが1度拝観したいと思っています。

 また、今回の研修会では、長浜市に、「国友鉄砲ミュージアム」があることもお教えいただきました。

※10月18日朝のTV「舞い上がれ」を見ていましたら、国友一貫齋の「日本で最古の飛行機の詳細図」が少しだけ映っていました。(びっくりしました)