供養

供養
恭敬について考える機会をいただいています。考える時間がまだ十分でありません、そして、まとまった形ではありませんが、今の思いをHPに記載します。
いろんな想いや考えがあるとおもいますのでお教えいただければと思います。

皆さんは、「供養」の言葉から感じることは何でしょうか。
「先祖(亡くなった方)を供養する」など良く使いますね。
辞書を調べますと、
供養 死者の霊に供え物をして、死者の冥福を祈ること【岩波国語辞典第6版】
供養 敬いの心を持って奉仕すること 三宝や父母・師長などに身・口・意の三業をもって供物をささげること【浄土真宗辞典】
あります。

私(住職)は、仏教では、「三宝(さんぽう)=仏・法・僧を敬う心を持って奉仕すること」から始まっているのだと感じます。そして長い年月の中で父母・師長、死者を敬う心を持って奉仕(供物をささげること)や祈ることが含まれてきたように感じています。

真宗では、「供養」と言う言葉をあまり使っていません。それは、多くの方が「死者の霊に供え物をして、死者の冥福を祈ること」のように解釈しているからかもわかりません。

私(住職)の中では、「供養」が仏教的な意味合いから、道徳的な意味合いに替わってきているからだと思っています。

では、どのようにお伝えしていくのか 大切な方のいのち終える姿を通して、仏教の基本の「三宝(さんぽう)=仏・法・僧を敬う心を持って奉仕すること」を伝えていくかは難しい課題です。

高田の鑑学の川瀬和敬先生が「供養と恭敬」について書かれた著書がありました。

恭敬 つつしみ尊敬する意。『涅槃経』には「懺愧(ざんぎ) あるがゆえに、すなはち父母・師長を恭敬す」『高僧和讃』には「恭敬の心に執持して 弥陀の名号称すべし」【浄土真宗辞典】

『浄土高僧和讃』の「恭敬の心に執持して 弥陀の名号称すべし」
の「恭敬」の【左訓】「つつしみ・うやまう」「小乗おば供養という、大乗おば恭敬という」

恭は、自分を謙遜すること、敬は法を尊敬すること、これによって機を信じ法を信じる信心のすがたとみます。

『十住毘婆沙論』「釈願文」第五の初めに、
小乗の法をもって衆生を教化するを供養という、(中略)大乗の法をもって衆生を教化するを名づけて恭敬となす。

私(住職)は、「供養と恭敬」を紹介しながらお伝えしていますが、伝わっているか心許ない気持ちです。

いろんな想いや考えがあるとおもいますのでお教えいただければと思います。