お寺のホームページを開設して2年が経ちました。

お寺のホームページを開設して2年が経ちました。
私(住職)には、ホームページを作成できる知識も技術もありませんでしたが、お寺を応援してくださる(一社)お寺の未来様のお力をお借りして、平成27年(2015)の9月にお寺のホームページを開設して2年を迎えました。お寺のホームページが開設できましたことは、お堂の掲示板や行事案内・寺報などでお知らせをしていますが、まだまだご承知いただいていないようです。ご年配の皆様にはホームページと言われても何のことやら分からない部類の1つかと思われます。もしご年配の皆様のご家庭に若い世代の方々でパソコンやスマートフォンをお持ちの方がいらっしゃいましたら、インターネットで https://www.myoke-ji.com と入力をしていただきますと、法苑院 妙華寺のホームページが閲覧できます。(法苑院妙華寺や妙華寺で検索していただいても法苑院妙華寺のホームページが検索できると思います)またお寺のHPの中の、「お寺からのお知らせ」の記事は、お寺の行事の案内や住職が日頃感じたことまたお同行の方の投稿もございますので、時間がございましたら一度ご覧ください。

ホームページを開設して何が変わったか? 1年目の時も記しましたが、私(住職)の毎日の生活への見方が変わりました。私(住職)の生活の中での仏教や親鸞聖人の教えやお寺がどのように関わっているのかを改めて感じています。そこには私(住職)個人のこれまでから現在、将来のことや、お寺のこれからについて、その時に感じたことを記していますので時間とともに変化していることもあると思います。
また、考えたり感じたりすることを文章にすることの厳しさと共に大切さも感じています。そのことから、親鸞聖人が晩年までご著書に筆を入れられ、お手紙を書かれていたお姿に思いを馳せますととても感動いたします。

現在の私達の葬儀や法要のあり方、お墓についての意識は、これまでよりとても早く変化しています。また、葬儀や法要のあり方、お墓についての考え方もいろんな視点から論じられていますので考えを一つに整理することも難しいです。
一人一人のあなたにとってのお寺とは「何か」葬儀とは「何か」お墓とは「何か」を、お同行様のお一人お一人からご意見をお聞かせいただき一緒に考えることで、これからの妙華寺のあり方を共に作り上げていくことができればと感じています。

お寺の行事を行うことは別段これまでと違うわけではありませんが、そこに至る過程を丁寧に見ることになりました。私(住職)が法務を初めて40年ほどになりますが、変わってきた部分について改めてその背景に気づいたりします。お同行の皆様におかれましても生活の変化を感じられていると思います。変わるべきものと変わらないもの、必要とするものと必要でないと思えるもの、お同行様の視点ではお寺や親鸞聖人のみ教えをどのように感じられているのでしょうか?

和讃

和讃をご紹介いたします。和讃について多くの参考書がありますが、『注解 国宝 三帖和讃』常磐井鸞猶著と『正像末法和讃講話』川瀬和敬著より紹介します。

仏力无窮にましまさば 罪障深重も重からず
仏智无邉にましませば 散乱放逸も捨てられず

弥陀の本願力は、極まりないものであられるから、どんなに罪とがが深かろうとも、それを重しとしない。弥陀の智慧は際限があられないから、我々の心がどんなにしまりがなく、自分勝手であろうとも、それをお見捨てにはならない。

散乱放逸は、欲望に常に乱され、ほしいままに振舞う者。

以上 【注解 国宝 三帖和讃 常磐井鸞猶著より】

勤行本として依用しています文明本の正像末法和讃第36首目は、
願力无窮にましまさば 罪障深重も重からず
仏智无邉にましませば 散乱放逸も捨てられず
聖覚法印の『唯信鈔』のお言葉によって詠われます。『唯信鈔』というのは、『歎異抄』にも唯一の引用書としてその名が見えます。「弥陀いかばかりかの力ましますと知りてか、罪業の身なれば救われ難しと思うべき」と。『唯信鈔』は「仏」「罪悪」それが『歎異抄』では「弥陀」「罪業」にかわっておりますけれども、『唯信鈔』が聖人のお弟子たちに読まれていた証拠です。いまのご和讃のところ、『唯信鈔』の言葉を掲げます。
仏力無窮なり、罪障深重の身重しとせず。仏智無辺なり、散乱放逸のものも捨てることなし。ただ信心を要とす、そのほかをば顧みざるなり。
これはよく調えられた文章で、和讃せずにはおれない響き合いを感じられたのでしょう。聖覚は法然上人そのままです。それだから上人亡きあと法然上人につかえるようなお気持ちで慕い敬っていかれたわけでしょう。「如来の本願の力は窮まりなくましますので、私の罪業がいかに深く重くとも、それがさまたげにならず、仏のお智慧はほとりなくましますから、私どものような、心散り乱れているもの、散乱放逸のものも見捨てるということがないのです」と。(以下省略)
以上【正像末法和讃講話 川瀬和敬著より】

 

10月10日(火)の高田本山清掃奉仕の依頼

本山清掃奉仕
3~4年に一度、高田本山の清掃奉仕をお願いしています。今年は10月10日(火)【10月の連休明け】が妙華寺の当番日になりました。ご奉仕いただける方は、当日午前8時に妙華寺に集合いただきそろって高田本山に行き、午前中本山内の清掃をご奉仕させていただき、昼食となります。
その後、妙華寺まで一緒に戻り解散させていただく予定です。
ご多用ではありますがご参加をお待ちしています。昼食の準備などの都合で9月25日までに、ご奉仕いただけます方は妙華寺までお知らせください。

※これまで、お世話方様・婦人会の幹部様にお願いしていましたがお同行の皆様の中でご都合がよろしければ是非ともご参加していただければと思います。
お彼岸のご案内の時に、依頼文を同封させていただき、ご奉仕をいただける方のお名前をご記入の上、9月25日までにお寺にお申し込みください。
また、お寺のHPからもご申込いただきましても結構です。

秋の彼岸会は9月23日(祝・土)午後1時30分からお勤めをいたします。

法苑院妙華寺では、毎年春分の日・秋分の日の午後1時30分からお勤めとご法話がございます。
親鸞聖人のご和讃に
「生死の苦海ほとりなし
ひさしくしずめるわれらをば
弥陀の悲願のふねのみぞ
のせてかならずわたしける」とお述べになっています。
苦悩の世界(此岸)に沈んで久しい私たちは、阿弥陀如来の悲願によって救われる(彼岸へ運ばれる)とお諭しになられています。

秋の彼岸会は9月23日(祝・土)午後1時30分からお勤めをいたします。
その後、真楽寺の鷲山了悟師のご法話がございます。
妙華寺では、ご法話をご聴聞していただくと法会参加票にスタンプを押印させていただいています。ご聴聞をお喜びするご縁となりますように、10回ご参加いただきますと記念の品をお渡ししています。

讃佛会(さんぶつえ)
「暑さ寒さも彼岸まで」と言います。日本では、昼夜が同じ時間になり、太陽が西に沈む頃の春分の日・秋分の日を中心に一週間を春秋二季の彼岸と例えます。日本人の心に根付いた仏教への心温まる気持ちの現れです。
彼岸は、仏典に出てくる言葉で、パーラミターというインドの言葉を訳したものです。彼岸とは「到彼岸」の略で、迷いの世界(この世)から悟りの世界に到るということです。この迷いの世界を此岸(しがん)といい、如来の悟りの世界を彼岸と名付けています。
親鸞聖人は、「人みなこの此岸、つまり人間世界から彼岸への途を歩まねばならない」とおっしゃってみえます。
此岸から彼岸へのこの道は阿弥陀如来ご廻向の道であります。浄土への道は、浄土からの呼びかけの道であります。彼岸会はインド・中国にはなく日本独自の法会です。真宗では彼岸の一週間を佛徳を讃嘆する場として、また聞法のご縁の場として大切にしています。
真宗では、彼岸会を讃佛会とも申しています。

ひとくち法話

親鸞聖人のご生涯をとおして
【第19回】高田の本寺は真宗教団のはじまり
親鸞聖人が関東に赴かれるまでは、この地の人々は、お念仏の教えと無縁であったようです。そこには、山伏弁円の板敷山物語のような修験道という山岳信仰や加持祈祷などの呪術によって病気を治し、生活の不安や悩みを除こうとしたり、祖先の霊魂によるタタリを鎮めようとする密教的俗信が幅をきかせていました。
このようなところへお念仏の教えの種をまかねばという聖人の決意は、想像以上の固いものがあったことでしょう。使命感に燃える聖人が家族同伴で関東に入られたということは、お念仏の教えは老若男女、貴賤、僧俗の区別なく救われますという証拠を如実に身をもってお示し下さったものとうかがうことができます。
そして、ようやく十余年を経て、お念仏の種が関東各地に芽生えてきて、53歳の時に高田の本寺が建立されました。このことは、聖人の悲願が成就したという証明です。高田の本寺は、聖人が建立された唯一の寺院です。私たちの高田派の名称もここからきています。本寺における聖人のお話はいつも、『生死の苦海ほとりなし。煩悩愚息(ぼんのうぐそく)の凡夫が助かる縁は、恭敬(くぎょう)のこころで弥陀大悲(みだだいひ)の名号を申すばかりです』ということでした。
のちに関東のお同行が「往生極楽の道を問い聞く」ために、命がけで京都に帰られた聖人を訪ねたという話が伝わっていますが、本寺にはそういった真剣な心で、聖人のお話を一言一句も聞き漏らすまいと毎日大勢の参詣人が押し掛けていたに違いありません。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

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四季の花

四季の花 9月に入りめっきり秋の気配を感じる毎日です。境内の紫色した花々が目立っています。秋のムラサキシキブ、夏から咲いているサルスベリ、ムクゲ、名も知らない洋花、もう少しすると紫色の秋明菊も咲き出します。

寺報のこれまで

寺報のこれまで
昨年(平成28年12月発行)の妙華寺の「寺報」が35号であります。これまでの「寺報」を捜していました。「寺報」1号が見つからず2号から綴りましたが、「寺報」2号は昭和51年7月1日発行とあります。前々住職の時代です。B5用紙一枚で裏表を使用しています。内容を見てみますとこれからの行事の予定とこの年の前半の行事の報告です。春の彼岸会・春の千部会は3日間お勤めをされています。ご聴聞されるお同行の皆様が少なく布教使様に申し訳ないとの前々住職の気持ちも綴られていますが、お正月の修正会には50名ほどお越しいただいたことや、花祭りに赤ちゃんの生誕祝賀会を開催して15名の赤ちゃんが参加されたことや、今は行事がありませんが婦人会報恩講には70名の参加があり会員300名ほどにお供えを渡したことなどが報告されていることを見ると、今の行事にお越し頂いているお同行様がとても大切な存在でありますことや、これからのお寺の行事に、それぞれの皆様が友達をお一人お連れいただくようお願いしたいと思いました。これらのことから「寺報」1号は昭和51年の早い時期に発行されたように思います。「寺報」3号は昭和52年2月25日発行です。「寺報」4号が見つからず、「寺報」5号は昭和58年1月1日発行です。前住職の時代で、その年の行事予定が書かれています。3月28日29日に一光三尊仏御開扉をお迎えすることも記載されています。彼岸会・千部会・報恩講は2日間の行事になっています。「寺報」6号は、昭和61年1月1日の発行で前号から3年後になります。「寺報」7号は昭和62年12月発行となりB5用紙4ページの形になり内容は現行のものと同様でこの号から今の形が続いています。住職の巻頭言、行事の予定・お知らせ、お礼や報告、お世話方様や婦人会幹部の皆様の名簿となります。「寺報」8号は平成元年12月発行ですので前の号から2年後に発行しています。「寺報」9号から毎年発行され今にいたります。平成12年の行事から彼岸会・千部会・報恩講が1日になり今の行事の形になりました。平成19年12月発行の「寺報」26号より私(住職)が編集することになりB5サイズからA4サイズに紙面を大きくなり、白黒ですが写真も掲載しました。
この記事もお寺のHPでの紹介ですが、昨年HP開設1年の記念としてお同行の皆様に改めてお寺のHPをお知らせをいたしました。その後ご年配の方からパソコンなどの機器もない生活ですので(HPの)お知らせは無用ですと複数の方からお申し出がありました。申し訳ないお知らせをしたと反省しています。どなたも見ることができる「寺報」もお寺の行事や情報を伝える大切なものですのでこれからもっと良いものにしたいと考えています。ご提案やご意見がございましたら住職まで是非ご連絡ください。

9月は、秋のお彼岸の準備から始まります。私(住職)が小さかった頃は「暑さ寒さも彼岸まで」と言葉とおりの季節感でしたが最近は秋の彼岸法会で扇風機が必要なこともあります。今年は本堂に空調設備を導入しましたので7月8月のお勤め時、暑さも少ししのげた感じです。

光澤寺前住職37回忌のお勤め

昨日、妙華寺の相導師の光澤寺様の前住職様の37回忌のお勤めをさせていただきました。西余間に敬置されました前住職様の御影像がとても特徴を捉えられたお姿で、妙華寺の前々住職の葬儀の時にお勤めいただきました頃のことを思い出しました。
光澤寺様は津市の西古河にあり、戦争の時に空襲で本堂が焼失され、必至でご本尊を護られ、その後大変なご苦労の中、本堂を再建をされたことを改めてお聞かせいただきました。高田派の中興上人であります真慧上人の六字名号や九字名号など貴重な宝物も戦争中疎開をして今も光澤寺様に大切に伝えられています。
仏間には、上部分が第21世堯煕上人(墨山)の筆で下のサンスクリットの部分は第22世堯猷上人(雪山)の得度前(多分ヨーロッパご遊学から戻られて)の筆の額が掲げられていました。余り見ることのできない書を拝見することができ帰路につきました。

 

9月の日曜学校

9月の日曜学校は、「地獄絵ワンダーランド」の図録と、季刊「せいてん」から地獄(と仏)についての紹介です。今年は、源信1,000年忌として注目されています源信の『往生要集』を契機に、地獄がとても恐ろしい世界として表現されるようになりました。「地獄絵」を中心に、地獄の因果論の意義と注意点や、親鸞聖人の地獄の見方を紹介しました。

「地獄絵ワンダーランド」展は、龍谷ミュージアムで、9月23日から11月12日まで開催されます。秋の京都で「地獄絵」を楽しむのもいいのでは!
※本堂に「地獄絵ワンダーランド」展のチラシが数枚あります。チラシを持参されますと展覧会の入場券の割引があります。

ひとくち法話

親鸞聖人のご生涯をとおして
【第18回】高田の本寺ものがたり
29歳で他力念仏に帰依された親鸞聖人は、その後の越後(新潟県)での厳しい流人生活や関東における民衆教化を通して、庶民には念仏こそが確かな救いの教えであることを確信されました。そして、その教えである真宗教義の骨格を数年かけて『顕浄土真実教行証文類(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい)』としてまとめ、聖人52歳の時、ようやく草稿ができあがりました。
今日、真宗教団では、この偉業を讃えてこの年(1224年)を「立教開宗」の年と位置づけています。そして、翌年には「高田の本寺を建立せよ」「ご本尊として信濃(長野県)の善光寺から一光三尊仏をお迎えせよ」という二つの有名な夢告がありました。
日頃から聖人の教えに耳を傾けてきた地元の念仏者たちは、これは阿弥陀仏からの勅命であると信じて、遂に一宇を建立したのでありました。これが高田派の起源です。また、その翌年、聖人54歳の時には、朝廷から「専修阿弥陀寺(せんじゅあみだじ)」という勅願寺の倫旨を受けました。これによって、聖人の教化活動は今までの遊行から本寺中心に変わっていきました。
そして、聖人の話を聞くために弟子は言うに及ばず、老若男女、貴賤の区別なく有縁の者が本寺に群参してお念仏を申し、み仏のお慈悲を喜びあったことでしょう。それはまた、ちょうど法然上人が京都の吉水の草庵で大衆にお念仏の教えを説いておられた光景と同じだったに違いありません。
このようにして、高田のお念仏はいよいよ広がっていきました。(『高田正統伝』を参照) ※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

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