今年も少し汗ばむような一日となりました。
今年は、13時30分より妙華寺会館で総会を行いました。その後、サプライズ企画として、会員様で大正琴を楽しんでいらっしゃいます方に演奏をしていただきました。
その後、婦人会会員でこの1年間でご往生されました、服部君子様、、栗田静子様の追弔会でお勤めをしました。
来年も、「お寺の講演会」としてどなたにもお聴きいただく予定です。
五月の日曜学校は、仏教から伝わった伝統や文化の紹介です。
①茶道 「さどう」・「ちゃどう」どちらも読んでいます。
臨済宗の栄西(ようさい・以前はえいさいと読んでいました)が中国から喫茶(きっさ)の習慣を日本へ持ち込んだのが茶道の起源。その後臨済宗の寺院では「茶礼」(ちゃれい)が確立されるなど、禅宗と茶道は深く関わりながら、喫茶の習慣は展開していく。茶道は仏教と関わる中で、「侘び」(わび)・「寂び」(さび)という日本独自の美意識を確立。静寂な空間で一心に茶を点てることでこころを落ち着かせ、自分自身を見つめ直し、精神を高めることをめざします。
※高田本山には、宗旦古流と言うお茶の流派が伝わっています。
②華道 本堂の荘厳で、香と灯明と華が用いられています。
奈良時代から瓶に挿した花を仏さまに供える「供華」(くげ)の習慣があった。
その後、室町時代に室内装飾のひとつとして、仏壇飾りの「供華」から着想を得て花瓶に挿した花が飾られるようになり、生け花が「華道」として進化したのは、室町時代中期、花の名手として活躍していた京都・頂法寺(ちょうほうじ)池坊(いけのぼう)の僧、池坊専応(いけのぼうせんのう)がより美しい生け方を追求し、初めて理論的に生け花を大成しました。
※高田派では、平素はご本尊前の花瓶に松1本で荘厳することで、「高田の1本松」とも呼ばれています。
6月の日曜学校は、第1日曜日が高田本山派婦人連合大会につき第二日曜日の6月11日に開催させていただきます。勝手を申しますがよろしくお願いします。
春千部会は、ゴールデンウィークの初日で暖かい日でした。ご法話の最中に急に強い風が吹き出し、唐戸が動いた大きな音に驚きました。ご参詣いただきました皆様には、ご焼香・ご聴聞いただきありがとうございました。春の千部会のご法話は義明寺の高藤英光師です。今回は『大経』の五眼(ごげん)を通して阿弥陀様のはたらきをお話していただきました。
お勤めが終わり次第、住職(私)もご聴聞されている皆様と一緒にご法話を聴聞できるように心がけていますが、出勤されましたご法中(ほっちゅう)様への挨拶などで最初から最後までお聞かせいただく時間をとるのが難しいのが現実です。ご法話をどうして聴聞したいのかは、やはり自分のことを改めて見つめる時間となると思うからです。阿弥陀のはたらきでしか、私が迷いの中にいることがうなづくことができないからです。また同じようなご法話と感じる時も、今聞くことは、私の人生の中で今(一度)だけですのでこの機会を逃すことはとても残念に感じます。
妙華寺でご法話を聴聞できるのは、年5回の行事の時だけです。仕事におわれる時代ですが、お時間を創っていただき、ご一緒にご聴聞いたしましょう。
また、お寺の行事の時は、ご聴聞されるお同行の皆様と共に、行事のお手伝いをしていただく方々でなりたっています。お勤めが始まる合図として梵鐘をついていただきます。それによって住職や出勤法中(ほっちゅう)は、衣体(えたい)を着替えます。お堂にお入りいただいた所の帳場ではお同行の皆様方が仏様へお供えいただきましたご懇志を各行事ごとに懇志帳に全て記帳していただいております会計担当のお同行様がいらっしゃいます。皆様のご懇志は、妙華寺にお預かりさせていただき、今後の妙華寺の護持、阿弥陀仏の「み教え」を伝える一助にさせていただいています。
暖かな日に恵まれ、第1回「お寺で体験」を開催させていただきました。
8名の方にお越しいただきました。今回は、お寺の会館に安置されている一光三尊仏を間近に拝見しながら三尊さんにまつわるお話しをいたしました。隣寺にも三尊さんがございますがあいにくお勤めがあり、拝見することができませんでしたがまたの機会をお願いしたいと思います。
次回は5月28日(日)10時から11時30分です。お茶(抹茶)にまつわるお話しを予定しています。
どなたでもご参加いただけますが、準備の都合上、事前申込をお願いします。
3月の日曜学校では、2月15日から1ヶ月間、本堂西余間(むかって左側)に涅槃図をお掛けします。間近で見ていただきました。
この佛涅槃図は、親鸞聖人750回御遠忌の記念として高田本山より京都別院の佛涅槃図の複製が配布されましたものです。平成24年よりお掛けしています。
京都別院の佛涅槃図は、室町時代の兆殿司筆で、大きさは、縦151.2cm 横128.7cmです。
佛涅槃図は、釈迦(しゃか)の入涅槃の場面を描いたもので、釈迦が亡くなられた二月十五日の涅槃会で本尊とされます。
八十歳になられた釈迦は、インド北西部のヴァイシャーリーで夏安居(なつあんご)を過ごし、北のバーヴァーに向い、鍛冶工のチュンダから食事の供養を受けましたが、食あたりを起こしました。痛みをこらえつつ、阿難(あなん)とクシナガラに赴きました。阿難に「私は疲れた。休みたい」と言われ二本の沙羅双樹の間に、頭を北に顔を西に向け、右脇腹を下にして横たわれました。釈尊の元にかけつけた弟子に「もろもろの事象は移ろい無常である。放逸に堕することなく、修行せよ」と諭され二月十五日の満月の日に静かに入滅されました。釈迦の最後の説法は『大般涅槃経』に、入滅とその後の話は、『大般涅槃経後分』に説かれています。
箱裏に「涅槃像 兆殿司筆 一幅」とあり、室町時代の明兆(一三五二~一四三一)筆との所伝であるが、明晰な色彩から実際の制作年代は十六世紀後半、室町時代後半から桃山時代にかけてと考えられる。
(京都国立博物館大原嘉豊氏の解説を元に作成)
★高田本山では、3月15日から20日まで如来堂にて「佛涅槃図」をお掛けしています。 絵解きは、3月15日から3月17日の11時と13時よりございます。