ひとくち法話

親鸞聖人のご生涯をとおして
【第13回】越後への流罪
「承元の法難」に会われた親鸞聖人は越後(えちご)へ流罪と決まりました。当時の規則では流罪は死罪につぐ重罪でした。聖人は輿に乗せられ、追立役人に警護されて、京都から逢坂の関、船で琵琶湖を北上、山路を越前越中、それから船で越後国分寺に程近い、居多ヶ浜(こたがはま)に上陸されました。
しかし、流罪という不条理な刑罰を被ったことについて、聖人は後年『教行証文類(きょうぎょうしょうもんるい)』の後序に
「主上臣下、法に背き義に違し、忿をなし怨みを結ぶ。・・・中略・・・罪科を考えず、あるいは僧儀を改め姓名をたもうて遠流に処す。予はその一なり」
と述べられています。しかしまた、従容として刑に服された師法然を見るとき、聖人は「都から遠い越後という未開の地では、人々は生死に迷っているだろう。師法然が流刑になられたからこそ、越後の人々に仏の慈悲を説く機会がこの自分に訪れたのである。これも師から教えを受けたからこそだと感謝し、潔く配所へ赴こう」と師へのお陰と受け取っていかれました。
越後では、最初の一年は役人の監視下にあり社会から隔離されたままで、食は一日米一升、塩一勺だけで、翌年春になって種子籾をもらい、以後は自活の外に生きる道はありませんでした。自給自足に備えた、荒れ地の開墾も、流人の聖人が耕作できる土地は河原くらいだったのです。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

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親鸞聖人のご生涯をとおして
【第12回】承元の法難(じょうげんのほうなん)
奈良の興福寺が、朝廷に念仏禁止を訴えている時、念仏教団にとって大変困ったことがおきてしまいました。
それは、住蓮・安楽という法然上人の弟子が、念仏の集会を催したところ、後鳥羽上皇に仕えていた女官数名が、その集会に参加し、念仏こそ私たちが救われていく教えであると確信し、髪をおろしてしまったのです。これを聞いた上皇は激怒しました。そして興福寺の訴えを受け入れ、ついに承元元年(1207)に風紀を乱すものとして念仏教団を解散させてしまったのです。
そして、住蓮・安楽ら4名を死罪に、法然上人をはじめ七名を流罪にしました。親鸞聖人もその一人で、越後、今の新潟県の国府に配流となりました。これが世にいう「承元の法難」で仏教史上、類をみない弾圧事件でした。
ときに法然上人は75歳、親鸞聖人は35歳でした。親鸞聖人は、師・法然上人とのお別れに際し
会者定離 ありとはかねて聞きしかど きのう 今日とは思はざりしを
と、詠われました。そして、法然上人は
別れゆくみちははるかにへだつとも こころは同じ 花のうてなぞ
と、詠まれたと伝えられています。これがおふたりの今生の別れとなりましたが、次はお浄土で会えるという喜びの詩でもあるのです。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

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親鸞聖人のご生涯をとおして
【第11回】念仏弾圧の狼煙
法然上人の教えに帰依する人々が増え、門弟たちが急増するにつれ、庶民はもとより悪人女人(あくにんにょにん)の身でも念仏を称えれば往生(おうじょう)がかなうという教えは堰を切ったようにあっという間に広がっていきました。
そうした中を、吉水入室後四年の親鸞聖人に大きな喜びの日がきました。それは、師の法然上人から『選択本願念仏集(せんじゃくほんがんねんぶつしゅう)』の書写を許されたからです。この本は法然上人六十六歳の折、九条兼実の求めに応じて専修念仏(せんじゅねんぶつ)の根幹となる教義を撰述したもので、少数の優れた門弟のみに見写が許されていました。弱冠三十三才の聖人が書写を許されたということは上人から高弟として嘱望されていた証拠であります。親鸞聖人の感激はいかばかりであったでしょう。
しかし、この新しく台頭してきた吉水教団を快く思わない人たちがいました。特に比叡山の僧たちは、法然上人がこの山で修行した関係もあって、「念仏宗」という宗派をたてたことに対して特に強い近親憎悪感をいだいていたといいます。
一方、都では念仏が盛んになるにつれて、念仏者の中に勝手な振る舞いをする者がでてきたので法然上人は『七箇条制誡』をつくり門弟たちをいましめ、親鸞聖人も「僧綽空」とご署名になっています。
けれどもついに公然と非難の火の手があがったのです。今度は法相宗で南都仏教に強い影響力をもつ、奈良の興福寺が専修念仏の禁止を朝廷に訴えたのでした。この訴えは世に「興福寺奏状」といわれています。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

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親鸞聖人のご生涯をとおして
【第10回】信心一異のおはなし
法然上人のもとで、聞法を続けておられたある日のことです。親鸞聖人が「私の信心と、師・法然上人の信心とは同じです」と言ったので、多くの先輩僧たちと論争になりました。先輩たちは、「師の信心と弟子である私たちの信心が同じであるとは、とんでもないことだ。師・上人に対して失礼な話ではないか」というのです。
親鸞聖人は「智慧、才覚、学問では、法然上人におよぶべくもありませんが、信心はみほとけから賜った信心(他力の信心)だから、師・上人の信心も私の信心も同じです」と言って自分の思いを曲げませんでした。
そこへ法然上人が出てこられて「自分のはからいでつくる信心(自力の信心)なら、信心は各人各別ですが、みほとけからいただく信心は皆同じです」と申されました。
また、お念仏は「わが名を呼ぶものは、必ず救いますという阿弥陀仏の呼び声」であり、「その阿弥陀仏のお約束を信受すること(信不退)」が真宗の要であると親鸞聖人は領解されました。このようにして聖人は、自力の限りを尽くした比叡山の二十年間の修行を経て、ようやく法然上人のもとで阿弥陀仏の他力信心を獲得し、往生浄土の道を真っ直ぐに歩み出されたのです。聖人はこの慶喜の決意を「雑行を捨てて本願に帰すと」(『教行証文類』)著され
本師源空よにいでて 弘願の一乗ひろめつつ
日本一州ことごとく 浄土の機縁あらわれぬ

『浄土高僧和讃 (源空讃第1首)』と讃ぜられたのです。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

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【第9回】信行両座(しんぎょうりょうざ)のおはなし
法然上人の念仏教団の最盛期には、お坊さんだけでも400人近くが集まっていました。
ある日のこと、親鸞聖人が法然上人に「たくさんな弟子がいますが、お念仏の教えを正しく聞いている者は何人ほどいるでしょうか。一度知りたいものです。」と言われ、「では、皆にたずねてみましょう。」と皆が集まった所で「浄土に生まれる最も大事な因は何か」と問われたのです。
念仏を申すこと「行不退(ぎょうふたい)の座」か、本願を信じること「信不退(しんふたい)の座」かのどちらかに座るように言いました。
さあ、大変です。日頃の聴聞(ちょうもん)が確かであるかどうかがわかるのです。お互いに自信なさそうに、顔を見合わせながら、大多数の者は行不退の座に座りました。親鸞聖人と他数名だけが信不退の座に座ったのです。法然上人は、皆が座ったあとで、「それでは、私は信不退の座に座りましょう。」と、親鸞聖人と同じ信不退の座に座られました。本願を信じることが往生の要であるとお示しになられたのです。
私たちが最も親しんでいる「不退の位すみやかに」の和讃に
「恭敬の心に執持して」(信不退のこころ)
「弥陀の名号称すべし」(行不退のこころ)
という句があります。私たちは「他力念仏」と聞いておりながら、ついつい称名(お念仏)に力がはいって数多く申すほど功徳も大きくなるような気がしますが、そこをこの和讃は、たくみに諭してくださっています。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

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親鸞聖人のご生涯をとおして
【第8回】お念仏はみほとけの呼び声
法然上人の教えは、誰にでもわかるお話でした。
ほとけになる道に二種あります。ひとつは、自分の努力でほとけになる道です。学問をして賢くなり、戒律を守って生活を正し、きびしい修行に耐えて精神統一をはかり、日夜に読経をして善根を積みます。このような精進によって、心を清らかにして、この世でほとけになっていく道です。これは、遠い道のりを徒歩で旅するようなものです。非凡な知識と十分な体力と苦難に耐えていく精神力が必要ですから、至難な道、「難行道」といっています。
もうひとつの道は、「南無阿弥陀仏と仏の御名を称える者は、必ず救います」という阿弥陀仏の誓いを心から信ずる道です。これは、老少善悪の人をえらばず、どんな愚かな者でもすくわれるから、行きやすい道、「易行道」といっています。
そして上人は話をつづけました。
お念仏は、私たちの願いをみ仏に届ける言葉ではなく、「わが名を呼ぶものは必ず救います」というみ仏からのよび声なのです。だから私たちは、このみ仏のよび声を素直に聞けるかどうか、ここが一番大事なところです。
この他力救済の核心を聞かれた親鸞聖人は、今までに経験したことのない大きなよろこびがわき出てきたのでありました。
「智慧光のちからより 本師源空あらわれて 浄土真宗をひらきつつ 選択本願のべたもう」 『浄土高僧和讃 (源空讃第2首)』と、和讃にもあらわされています。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より
先日18日に「お寺の講演会」で、浄土宗光琳寺の井上広法師のお話と合わせて「法然聖人の教えがなかったら今の日本の仏教はどのような姿であるか」考えもしませんでした。

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親鸞聖人のご生涯をとおして
【第7回】法然上人との出会いの意義
人生は出遇いです。いつ、どこで、どんなことで、誰に出遇うか。そのことがお互いの生涯を決めていきます。
親鸞聖人は、20年という長い比叡山での修行に行き詰まって、その解決を聖徳太子のご示現に仰ごうと、京都にある太子建立の六角堂に百日の参籠をされたのでした。
そして、太子の夢告に導かれて、東山吉水の草庵に法然上人を訪ねられました。草庵には、上人の教えを聞こうと毎日庶民が群参していました。聖人もその一人となって百日間も聴聞され、ようやく自分の救われる教えを思い出されたのでした。
聖人は、この出遇いを『教行証文類(総序)』に
「遇い難くして、遇うことができました。聞き難くして、真宗の教えを聞くことができました」と感佩されています。
また『浄土高僧和讃(源空讃第4首)』には「本師源空いまさずば このたびむなしくすぎなまし」
もし法然(源空)上人との出遇いがなかったら、せっかくこの世に人間として生まれてきても、救われることなく無駄な人生で終わってしまうところでした。と述懐しておられます。
聖人をして、ここまで表現された師法然上人との出遇の意義を私たちは、どう理解したらよいのでしょうか。それは、我が国(片州濁世)に、阿弥陀如来の他力念仏の教え =真宗= がついに開顕したからなのです。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

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【第6回】六角堂での夢告(むこく)
修業者だけでなく、誰でもが救われる道はないものかと苦しみ悩まれた「範宴(得度時の親鸞聖人の名)」さんは遂に比叡の山を下り、京都の六角堂に籠もられました。
六角堂は慈悲の象徴である観音さまをまつってあるお寺で、その化身である聖徳太子が建てたといわれています。ここで100日間、日夜命をかけて、ただひたすらに誰でもが救われる道を求め続けたのでした。ところが100日間の参籠(さんろう)の終わり頃の95日目に、疲れ果ててうとうとと意識のもうろうとしていたときに、枕元に不思議なことに観音さまが聖徳太子となって現れたのです。
聖徳太子は「あなたの悩むことはよくわかるぞ、その道を解決するには、ここから東の方、数里のところ、東山のふもとの吉水に『法然(ほうねん)』という人がいる。そこに赴いてその法を聞け」という夢のお告げがあり、さっと姿を消されたのでした。
「範宴」さんはその足でそのまま、五条の大橋を渡り吉水に馳せ参じられました。これで完全に比叡のお山と決別しました。それ以後はひたすらに「法然」さまの所に通い続けられたようです。
修業者だけでなく百姓も町人も武士も商人も含めて、あらゆる人のたすかる浄土の教えに、やっと会うことができたのでした。得度以来約20年間のご苦労もようやく実を結び、「法然」さまから「綽空(しゃっくう)」という名も頂き、更なる浄土の教えの研鑚に努められたのです。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

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【第5回】青年僧『範宴(はんねん)』の懊悩
私たち凡人(ぼんぶ)の悩みは何かと問われたら、年齢はとりたくないとか、病気が早く治ってほしいとか、苦しまずにうまく死にたいとか、もっとお金があったらとかいう類(たぐい)のものです。
青年僧「範宴(得度時の親鸞聖人の名)」さんの比叡山時代の悩みはそんなものではなく、もっと奥深いものでした。いくら勉強しても修業をしても、内からむらむらと湧きだしてくる貪欲心(とんよくしん)を消そうとしても消せない人間としての悩みでした。たとえまた、自分自身は修業して救われたとしても、比叡山の麓の大原の百姓たちは如来さまの救いにあえるのだろうか、琵琶湖で網を投げる漁師たちはどうだろうか、西陣で機を織る女たちはどうだろうか、荷物を担いで物を売り歩く商人たちは救われるのだろうかと悩み続けられたのでした。
当時の比叡山に登って学問をし修業ができるのは、ごく限られた貴族等特権階級の子弟だけしか許されない時代です。純粋に思惟する範宴さんは山で研鑚し続けられなくなって、今の言葉でいえば強いストレスにとらわれ、山の内外を放浪して、何とか「誰でもが仏に会い救われる法」はないものかと、観音さんの化身である聖徳太子を祀ってある大和の寺々を訪ねて歩かれたのでした。
現代の私たち真宗の同行は、本願念仏によって誰もが例外なく救われるということになっていますが、この真宗の教えが確立されるまでには、このような青年僧「範宴」さんの深くてまじめな悩みを経過して出来上がったことを忘れてはならないのです。

※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

 

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 親鸞聖人のご生涯をとおして
【第4回】聖徳太子廟に詣でて
比叡山での血のにじむ修行と研鑚を続けられた親鸞聖人は、はや19歳になられました。その間、この身このままで仏になるには、濁りのない清らかな心、鏡のように澄み切った動かない心にならねば、悟りの境地には入れないと、法華経の教えを信じて行を重ね、学問にも心血を注がれましたが、どうしても清らかな心になれず、また、心を静めることもできませんでした。
聖人は、この上は「日本に仏教を広められた、観音の化身と仰がれている聖徳太子に、この悩みを聞いていただこう」と考えられ、魂の解決を求めて、河内国、磯長の叡福寺にある聖徳太子のお墓に詣でられました。そして御廟(ごびょう)の前に座り、一心不乱に今までの苦悩や、迷いの解決の道を聖徳太子に念じられたのです。
二日目の深夜でした。つい、うとうとと、まどろんだ聖人は恐ろしい夢をご覧になりました。
「わが弥陀と観音、勢至は、この塵にまみれた濁りの世を救うために懸命になっていられる。この日本は真実の宗教が栄える土地である。よく聞け、私の教えを。お前の命はあと十年余りである。そのいのち終われば、お前は速やかに浄らかな土へ入るであろう。だからお前は、今こそ菩薩を深く心から信じなければならぬ」と。
感受性高く、自己に厳しい聖人は、この聖徳太子のお告げをどんな思いで受けられたでしょうか。突然、自己の死との対決を迫られた、この夢告は以後の聖人の求道に決定的な影響を与えたと言えます。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より
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