ひとくち法話

親鸞聖人のご生涯をとおして
【第3回】比叡山での血のにじむ修行と研鑽
9歳の春、京都の青蓮院で得度・出家された親鸞聖人は、修行のため比叡山に登っていかれました。
比叡山は、天台宗の開祖である伝教大師が開かれた修行の道場です。山上の自然、殊に冬の寒さは格別で、幼い聖人にとっては耐え難い日々であったにちがいありません。
天台宗の教えは『法華経(ほけきょう)』に説かれている「この身このままで、この世でほとけになること」が目標です。それには「こころの動きを止めて、真理をみつめる」修行に徹することでした。
ほとけになるためには、何よりもまず、わが心が濁りのない清らかなこころに変わらなければなりません。純粋な聖人は、そのために忠実に教えに従って脇目もふらず、修行と学問に努力されましたが、修行すればするほど、わがこころの醜さ、弱さが見えてきてどうにもならなかったのです。
その頃の聖人の苦悩を『歎徳文(たんどくもん)』には「例えていえば、静かな水面をじっと見つめて精神統一をはかっても、こころの中のざわめきを押さえることが出来ません。一天の曇りもない清澄な月光を思い浮かべて、濁りのないこころになろうと願っても、迷いの雲がこころを覆ってしまう」と述べられています。
こうした苦悩や疑問をかかえての長い修行を通して、自力の修行によっては、ほとけになることができない自分であることを自覚された聖人は、自分のような者でもほとけになる道はないものかと、聖徳太子ゆかりの地を訪ねる旅に出られたのでした。山に登られてから十年の歳月が経っていました。

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ひとくち法話

親鸞聖人のご生涯をとおして
【第2回】得度は9歳青蓮院で
幼くしてご両親を亡くされ、激しい無常を感じられた親鸞聖人は、出家の志を深く心に固め、叔父の日野範綱(ひののりつな)卿に伴われて、京都の粟田口にある青蓮院(しょうれんいん)の門をくぐり、出家得度(しゅっけとくど)の式にのぞまれました。九歳の春のことでした。
得度とは、髪を剃って僧になることです。当時の院主は慈円(慈鎮和尚とも言う)で天台座主(てんだいざす)をつとめられた高僧でした。しかし、得度はスムーズに行われなかったのです。得度には中務省(なかつかさしょう)という役所の許可が必要だったのです。その許可が遅れ、夕暮れ時となってしまいました。慈円院主が、今日は日も暮れかけたので、明日にしようと言われた時、幼い親鸞聖人はこのような歌を詠み院主に訴えました。
「明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」
今、咲き誇っている桜も今晩嵐にあって散ってしまうかもしれない。私は今、得度式をしてほしいという切なる願いをもっています。仏法には明日は無いというきびしい思いだったのでしょう。
歌に託された童子の心根に感嘆された慈円院主は、さっそくその夜に得度出家の儀を行い、僧名を範宴(はんねん)と名付けられたのでした。
現在、巨大な楠に囲まれた青蓮院に『親鸞得度の間』があり、内陣の左右には、慈円と親鸞の真影がかかげられています。範宴、後の親鸞聖人の、この得度由縁から、高田本山の得度式は昼間でも扉を閉ざして、夜になぞらえて執り行われております。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より
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ひとくち法話

親鸞聖人のご生涯をとおして
【第1回】ご誕生は京都日野の里
真宗を開かれた親鸞聖人は、今から800年程前にご誕生になりました。
京都市の東南、現在の伏見区にある日野の里という山里で法界寺(ほっかいじ)のほとりがご誕生の地です。
お父上は藤原氏の貴族の末流で藤原有範(ふじわらありのり)といい、母上は吉光女(きっこうにょ)と伝えられています。
当時は藤原氏中心の貴族政治から武家政治に変わろうとした激しい動乱の時代でした。また、大地震や飢饉(ききん)もあり、うち続く戦乱と天災地変に見舞われ、不安とおののきの中で人々の生活は大変だったようです。法界寺は当時は天台宗で、現在は真言宗のお寺で、幼い頃の聖人はご両親と共に、この法界寺の阿弥陀堂で朝夕合掌礼拝されておりました。
しかし、両親と暮らされた日々はわずかで、聖人4歳の時に、父君が、そして8歳の時には母君を相次いで亡くされました。
両親と死別された悲しみはいかほどであったろうと思います。強く無常を感じられた聖人は後生の一大事(ごしょうのいちだいじ)の解決をめざして、出家得度(仏道修行)を決意されたにちがいありません。
日野の里、法界寺のすぐ近くに聖人のご誕生を記念する誕生院があり、境内に親鸞童子像が建立されております。
聖人出生の地として、ここ日野の里を訪れる聞信徒の参詣は今もたえることがありません。お互いに生涯に一度は訪ねたいものです。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

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ひとくち法話

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ほっとするに!寺内町(ほっとするに!じないちょう)
一身田(いしんでん)の町の電柱に「ほっとするに!一身田町」という看板があちこちに見られます。
一身田の町のことを「寺内町」と言います。寺内町とは大きなお寺を中心に形成された町で、日本の中でも原形を止めている寺内町は数カ所あるあるだけで、一身田は数少ない貴重な寺内町なのです。この寺内町が成立したのは天正8年(1592)頃だと言われ、本山を中心にして、本山へ参詣する人たちに土産物や仏具を売ったり、本山を警護する人や本山の建築物などを保全する役職人が住まいしていました。遠方から参詣する人のために旅籠(はたご)も軒を並べていました。
寺内町の周囲には「環濠(かんごう)」という堀で防衛された、自治都市であったのです。現在もこの「環濠」が完全な形で残っているのは、この一身田だけです。
16世紀頃に出来た寺内町も4~5世紀を経て今日を迎えましたが、昨今はこの町を再び賑やかにしようと、毎年11月に「寺内町まつり」というイベントをして、市や文化財関係者や地元の商工会等によって多彩な行事が行われていることは高田本山にとっても歓迎すべきことでしょう。
しかし、この寺内町がほんとうに「ほっとする」町になるためには、本山にお参りする人が増え、お念仏の声が高まるよう、教団・住民ともどもに精進する課題にとりくまなくてはなりません。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

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ひとくち法話

法脈(ほうみゃく)
わが高田派を「法脈」の教団といっています。法脈とは、真宗の教え(法)を「一器の水を一器に移す」ように、正しく継承していくことを第一義とする教団という意味です。
親鸞聖人は栃木県高田に念仏道場(一光三尊仏のお寺)を建立され、ここを拠点にして布教に専念されました。京都に帰られてからは直弟子の真仏上人(しんぶつしょうにん)(第2世)、顕智上人(けんちしょうにん 第3世)が高田教団を相承されました。そして、本山を一身田に移された真慧上人(しんねしょうにん)(第10世)は御書の中で、「肝要は、阿弥陀如来の願力不思議を聞きえて、名号(みょうごう)を唱うべきなり。これ相承直説(しょうじょうじきせつ)なり」と他力信心のこの一点を押さえてご教示なさいました。
この真慧上人については、「証拠の如来」のお話(第42話参照)があります。訳あって正しい真宗の教えを比叡山で講義されたとき、上人を『親鸞聖人の再来ではないか』と全山の僧侶が讃歎されたといいます。
また、堯朝上人(ぎょうちょうしょうにん)(第15世)が幕府の命令に抗して宝法物を死守された事件も、法脈の伝統を天下に示された尊い歴史でもあります。
このような歴代上人の法脈教団としてのお導きは、現在のご法主(第24世)にも受け継がれ、「ひろめよう 念仏のこえ」「深めよう 恭敬(くぎょう)のこころ」と戴くばかりです。
弥陀の本願信ずベし 本願信ずる人はみな
摂取不捨(せっしゅふしゃ)の利益(りやく)にて 無上覚(むじょうかく)をばさとるなり 『正像末和讃 夢告讃』より
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

※現在は、第25世ご法主です。

 

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ひとくち法話

証拠の如来(しょうこのにょらい)
如来堂(にょらいどう)のご本尊(ほんぞん)は、「証拠の如来」といわれています。
第10世真慧(しんね)上人の時代のこと、本願寺(ほんがんじ)の中興上人といわれている蓮如(れんにょ)さんが、教団を拡張する手段として「帰命尽十方無碍光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)」という名号を同行に配っていました。しかし、同行の中にはこの「無碍(さしさわりのない)」という意味をはきちがえて「この名号を称えておれば、どんな悪事を働いても、往生の障りにはならぬ」といって、集団で乱暴するものがでてきたのです。そして蓮如さんも押さえがきかなくなりました。そこで真慧上人が比叡山に登って無碍光如来の正しい意味を説明し、7日間に亘って真宗の正意を講ぜられましたところ、その博識(はくしき)、弁舌に加えて確かな正意安心(しょういあんじん)に全山の僧侶が感動し、親鸞聖人の再来ではないかとうわさされたといいます。そして、わが高田派こそ真宗の教えを正しく受け継ぐ教団であるといい、その証拠にと慈覚(じかく)大師一刀三礼の阿弥陀如来尊像を真慧上人に献じられました。このことが「証拠の如来」といわれる由縁です。
のちに上人は『顕正流義鈔(けんしょうりゅうぎしょう)』を著して、色々な邪義をくだいて一流の正義を明かされました。
親鸞聖人は「無碍というは、如来のおはたらきは衆生の煩悩や悪業に障えられることがない」からだと解説しておられます。
古来から、わが高田派は、真宗の法灯集団だといわれていますが、この証拠の如来にまつわる史実もまた、その証のひとつともいえます。『高田山証拠如来縁起』より
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

 

【写真は、妙華寺の阿弥陀如来立像】

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ひとくち法話

野仏と野袈裟(のぶつとのげさ)
中興上人(ちゅうこうしょうにん)と仰がれている真慧上人(しんねしょうにん)(第10世)は伊勢の地を精力的にご巡教(じゅんきょう)されて、沢山の寺院や念仏道場を作られました。そして布教の重要な手だてとして「野仏」と「野袈裟」という葬儀式の要具を下付けされました。
「野仏」は今でも「野仏さん」と敬称されている阿弥陀如来のお軸で、死者の枕元にかけ、葬列のときには箱に入れて棺の前を歩く習わしになっていました。このことは、阿弥陀如来のお導きでお浄土に往生するということのお示しです。
また「野袈裟」が使われる以前は死骸を村境の墓地に置いてくるだけで、せいぜい土をかぶせる程度だったので、腐乱した死体を鳥獣がつつく光景が人々に地獄を実感させました。真慧上人はこれでは、死者に申し訳ないことと、真宗の教えから「野袈裟」を遺骸の上にかけ、やすらかな死後の往生を念じられたのです。
当時の「野袈裟」は縦1メートル20センチ、幅40センチの絹3枚を横につないだ大きさで、その中央に「南無阿弥陀仏」、その周囲に経文を記したものでした。
このように「野仏」も「野袈裟」も阿弥陀如来さまは、亡くなった方に、どこどこまでもついて離れず、お浄土までお導き下さるということを形をもってお示し下さっているのです。この伝統は高田派だけに遺されているもので、念仏者の願いを如実に具現化してくださった真慧上人のご功績であります。

※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

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ひとくち法話

御書(ごしょ)
私ども真宗高田派では、お寺やお同行のおうちで勤行〔おつとめ(ごんぎょう)〕をすると、最後に必ず『御書』を拝読します。
『御書』という呼び方は、お便りを書かれたお方が親鸞聖人や高田派歴代の上人なので、敬って『御』の一字をつけて『御書』と申します。
私ども高田派の『御書』は、第14世堯秀(ぎょうしゅう)上人によって編集されたのがはじまりで、巻1から巻7まであり、それに『報恩講御書』を加えて、全部で83通が納められています。
東西本願寺の御文、御文章が蓮如(れんにょ)上人というおひとりが書かれたものであるのに対して、「御書」は親鸞聖人をはじめ真慧上人(第10世)以降の歴代上人方が書かれたお便り(弟子やお同行へのご消息)で成り立っているのが大きな特色です。
よく「高田の『御書』はありがたいですね」と言われるのは、このような内容の違いからであろうと思われます。
ご承知の通り親鸞聖人は晩年に京都から関東のお同行や弟子たちにこまめにお便りを書かれており、また歴代の上人方もお便りの中へ親鸞聖人のお聖教(しょうぎょう)を引用されて、私どもにわかりやすくお示しくださっていることは、誠にありがたいことです。
文章の終わりに「あなかしこ」で結ばれているのは「ああ恐れ多いことです。勿体ないことです。」との領解のこころをあらわした言葉です。

※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

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ひとくち法話

文類偈(もんるいげ)
私たち高田派の勤行は、お朝事は「帰命無量寿如来(きみょうむりょうじゅにょらい)」の『正信偈(しょうしんげ)』です。お夕事は『文類偈(もんるいげ)』の「西方不可思議尊(さいほうふかしぎそん)」です。みなさん幼い頃に、お夕事は家族が仏前に座って、大きな声でゆっくりと節をつけて「西方不可思議尊」を勤行した記憶はありませんか。「私は正信偈より文類偈の方を早く覚えてしまいました」というお方の話を聞いたことがあります。現在でも私たち高田派の者は、たいてい『文類偈』を諳んじています。
真宗10派のうちで、毎日の勤行に『文類偈』を申すのは、わが高田派だけですから、このこともわが派の伝統の一つに挙げることができるでしょう。
両偈文とも1行7字で120行という構成です。教えの内容は、共に”信心の偈(しんじんのうた)”ですから同じです。それなのになぜ『正信偈』は朝に、『文類偈』は夕べに勤めるのでしょう。『正信偈』は、聖人が栃木の高田専修寺でご生活の頃に著された『顕浄土真実教行証文類(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい)』の中で書かれたものであり、『文類偈』は晩年に書かれた『浄土文類聚鈔(じょうどもんるいじゅしょう)』の中に出てきます。そこで、後で書かれたものを夕事に勤めるようになったというのです。
『文類偈』は「西方」で始まっています。西方極楽世界(さいほうごくらくせかい)〔観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)〕といわれるように仏教では西方は、阿弥陀如来の仏国土を指します。自然界でも西方は太陽が沈みゆくところであり、夕焼けの情景は私たちに絶対の安息を約束する世界のようです。これは人間の純粋感情と申してもよいでしょう。
聖人が、西方から筆を染められたところに『文類偈』の深いお心を汲み取ることができるようです。お夕事にはぴったりの偈文です。

※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

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ひとくち法話

念仏高田(ねんぶつたかだ)
高田派の宗風をいいあらわす言葉のひとつに「念仏高田」があります。みんなに親しまれている「不退(ふたい)のくらいすみやかに」の和讃の中に「弥陀(みだ)の名号称(みょうごうしょう)すべし」という一行がありますが、この心をいいあてた言葉でしょう。
親鸞聖人は、真宗のすくいを「念仏成仏 これ真宗(ねんぶつじょうぶつ これしんしゅう)」とのべられました。「凡夫(ぼんぶ)である私たちがほとけになる道はただひとつ、他力の念仏による」との教えです。
念仏を申すといっても、普通一般には「自分の願いごとがかないますように」とか「罰があたりませんように」などと、心の中で自分の都合のよいことを考えて、その実現を願いながら口でもナモアミダブツを称えていますが、これは欲の念仏、勝手な念仏、呪文の念仏といって、間違った念仏理解だと聖人はきびしくいましめられました。
そして、同じ念仏でも真宗は他力の念仏です。他力とは、ほとけさまのおはたらきです。ほとけさまが「われにまかせよ。われを信ずるものは必ず救う」と約束された。その私たちへの呼び声がナモアミダブツだと聖人は明かされたのです。
だから、わが高田派に「念仏高田」という宗風があるといわれることは、この聖人がおっしゃる正しい「他力の念仏」に立った教団ということでありましょう。
私たち、この高田派に身を置く者にとっては、常にこの大事な伝統の教えに立ち返って、「弥陀の名号称すべし」とほとけの呼び声を聞いていくことが大事であります。

※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

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