高田山専修寺(たかださんせんじゅじ)
修身、修養、修学など「修」は「しゅう」と読むのが一般的なので、「せんしゅうじ」と読む人が多くいます。
しかし、私たちの本山は「専修念仏(せんじゅねんぶつ)(お念仏ひとすじのみ教え)」から付けれてた寺号ですので「じゅ」と読みます。
「たかださん せんじゅじ」と正しく読むようにしましょう。
「同行(どうぎょう)」
ふつう同行(どうこう)と読みます。同行する、同行者などと道連れの意味で使います。
真宗では、○○寺の同行(どうぎょう)といいます。同じ教えをきき、同じ念仏を申す仲間のことです。
「生死(しょうじ)」
ふつうは生死(せいし)と読みます。生きているか死んでいるか。生死の境をさまよう、生死不明などと使います。
和讃では、「生死(しょうじ)の苦海ほとりなし」とおつとめします。つまり生死というと、単なる生と死ではなく、私自身が今生きているこの娑婆・迷いの世界そのものを言い表す言葉となります。
生死(しょうじ)界は苦海です。
「祈願(きがん)」
神・仏に『どうぞたのみます』と心を込めてお願いする行為が祈願です。初詣はその代表的な習俗といえましょう。
しかし、親鸞聖人は、この祈願を「わたしたちの願いは、自分勝手なことばかりであること。仏さまは、そのような私の心をすべてお見通しであることだから」と教えて否定されました。
だから、私たちは必ず救うと約束された仏さまの誓願に「お念仏を申すばかりなり」とうなずいて、お参りするほかありません。
「食堂(じきどう)」
一般には食事をさせる店や各家の台所を食堂(しょくどう)と呼んでいますが、もとは寺院の七堂伽藍(がらん)のひとつでした。僧房なので、「堂」の一字がついており、食事のマナーもきびしいものがあります。今日でも、食前食後に手を合わせ「いただきます」「ごちそうさま」というマナーは生活の基本になっています。
「娑婆(しゃば)」
梵語(ぼんご)で忍ぶという意味の音訳。人間界のこと。この世は、悩み苦しむことが多く、それに耐え忍んでいることから、この世を娑婆という。
自由のない刑務所から出ることを娑婆に出るという。忍土(にんど)には違いないが、地獄よりはましだと意味でつかわれている。
「往生(おうじょう)」
交通渋滞で「立往生」とか、困ったことに出会って「往生した」といいます。しかし、正しい意味は、この反対で「往(いき)生(いきる)」ですから、行き詰まりから抜け出ることです。だから仏教では、はっきり「ほとけの国に生まれること」を往生というのです。