8月の聞法

8月の聞法

7月中旬から三重県でも新型コロナウィルスの感染者が増え、8月の高田派の夏期講座や法話会が中止になる中、新しい生活様式に対応された紫雲会が開催されました。

「弥陀経和讃を仰ぐ」の講題で花岡靜人師のご法話でした。
午前中、法務があり、午後から参加しました。
涙から、阿弥陀様を「とも泣きの親様」と親しむこともあります。私と共に泣いてくださる阿弥陀様の涙は、悲しいから、悔しいからでなく、うれしい涙ではないでしょうかと問われました。
私と共にと聞きますと「私が悲しい時は、阿弥陀様も悲しい」「私が悔しい時は阿弥陀様も悔しい」「私がうれしい時は阿弥陀様もうれしい」と感じていましたがそうでなかったことを先生の大切な家族との別れから、お示しされました。
また、仏教では「生死」を1つとして捉えるのは、「死より辛い生」を問題にしているからだと仰られました。
私の存在が今こうしてあることよりはるか前から私のいのちを案じていただいていたことに頷くことや、私の我執の強さや、はねつけてしまう心の狭さを、阿弥陀さんの「はたらきに」でこれまで真実に出遇えなかった私(住職)が、遇うことができたことを「うれし(喜び)の涙」で「ともに泣いてよろこんでくださる」のですね。
やっぱり画面越しでなくリアルに目の前にいらっしゃるご講師の法話は心に迫ってきます。阿弥陀様の「はたらき」も見えないですがこちらもリアルであることを伝えることが布教であるのだと感じました。
※中川個人の感想です。