青巖寺の年回法会

親戚寺院の青巖寺の前々住職の命日に前々住職様の23回忌並びにその坊守様の27回忌のお勤めがあり、お同行の皆様と一緒にお勤めをさせていただきました。青巖寺の前々住職様は、妙華寺の前々住職の弟であり私(住職)も普段の生活の中で僧侶のあるべきようをお教えいただいていたと思います。ご往生されたのは、妙華寺の秋彼岸会でご法話をいただき、その後、住職・寺族と一緒に食事をしてお休みされてからのことでした。昨晩までお元気でしたので、とても驚くと同時に青巖寺様に申し訳なく思うことでした。27回忌の坊守様のご往生は、青巖寺様の秋の千部永代経の日でお勤めに出仕させていただいていたときでした。今もいのちのつながりを感じると同時に月日が経つのは早いと感じています。

大正時代の久居へタイムスリップ

大正時代の久居へタイムスリップ
お彼岸のお勤めに遠方からお越しいただきましたお同行様から大正時代の久居の地図と資料をいただきました。地図は「久居町勢一班」とある大正元年12月に久居町役場が発行した冊子の最後に綴じられていました。久居町の人口、児童数、選挙人数、地域の農産物の生産量、駅の乗降数などの統計と税金や町の財産などの一覧で行政からの報告書のようです。この頃はまだ江戸時代の町と同じ区域が久居町の地図として描かれています。今の鉄道駅も軽便駅と表記されていたり、私(住職)が小さかった昭和30年代まであった劇場が示されていたり、「久居農林高校」の前身の「農林学校」や私(住職)が通っていた小学校が「久居学校」の名であったり、私(住職)が知らない「洋裁学校」があったり、行政の役場の場所や、郵便局・銀行・警察が本町通りにあったり、寺町のお寺の位置が確認できたりとても貴重な資料と思います。


もう一冊は「一志郡久居町地誌」とある手書きの袋とじの資料です。こちらも久居の沿革、位置、地勢、字地(町名)、街道、寺院、神社、古墳(久居藩主の墓)名勝が記載されています。寺院の部に妙華寺の紹介もあり、文政4年の久居の大火では、山門と鐘楼堂を除き本堂など焼失とありました。お寺の寺誌では山門だけ残ったと聞いていたのですが鐘楼堂も焼失しなかったことを確認しました。

9月のおてらおやつクラブ

9月のおてらおやつクラブは、19日に一人親家族様と支援団体様にお送りいたしました。
今年は、お彼岸の前になりました。
また、おてらおやつクラブ事務局が作成された「てばなす」と言うフリーペーパーが創刊されました。秋彼岸法会のご案内時に配布いたしましたる。

また、年2度回収の古本勧進での古本も募集しています。
今回は8月末までに集まった古本を寄付させていただきます。
不要になりました古本がありましたらいつでもお寺にお持ち込みください。
対象の本は、裏表紙にバーコードのあります文庫本・新書本・単行本です。
申し訳ございませんが、週刊誌・雑誌・百科事典・全集は対象外です。
本以外、書き損じのハガキ・不要なCDも受け付けています。

和讃

和讃をご紹介いたします。和讃について多くの参考書がありますが、

『注解 国宝 三帖和讃』常磐井鸞猶著と『浄土高僧和讃講話』川瀬和敬著より紹介します。

浄土高僧和讃 曇鸞和尚 第20首

罪障功徳の体となる 氷と水の如くにて
氷多きに水多し さわり多きに徳多し

私どもの煩悩がつくる罪とがは、却って功徳の本体となる。
丁度、氷と水の関係のようで、氷が多いとそのとけた水も多い。
罪とがが多いとその転じた功徳もまた多い。

罪障は、菩提のさまたげとなる悪業。仏にそむくこと。
体は、もと

以上 【注解 国宝 三帖和讃 常磐井鸞猶著より】

第4行の左訓は「悪業煩悩なり、功徳となる」と見えます。煩悩悪業罪障はそれがそのまま功徳の内容となります。

それは丁度、氷が解けて水となる関係のように、氷が多ければ解けた水も多いです。
罪障が多ければ、それにつれて功徳もまた多いです。業障の身が、念仏に呼びおこされている事実です。

功徳が多くなることは、同時に罪の身を知るのです。罪のおもいが深くなって、

自分の全存在が罪となってしまうことを離れて、こしらえた功徳があるのではありません。
氷が多ければ水が多い、という言い方は、非常に自然でどこにでも根拠がありそうですが、

たやすくは見い出せないです。これが祖聖の書写された「信微(しんび)上人御釈」(西本願寺蔵)の中に発見されたのです。
障滅すれども去ぬる所無し、氷解けて水と為るが如し。氷多ければ水多し、障多ければ徳多し。
と、全くそのものずばりです。自信を確認するために、いかに広く渉猟(しょうりよう)されたかその一端に触れて、

伏しつ仰ぎつするばかりです。

以上【浄土高僧和讃講話 川瀬和敬著より】

阿弥陀如来座像

今年は、毎月10日に法苑院妙華寺を紹介していきたいと思います。
阿弥陀如来座像 一躯 木像 玉眼・寄木・金泥 像髙 88.5cm 江戸時代

妙華寺二代の融海(ゆうかい)上人が、青巖寺(せいがんじ)より入寺した時に、持参した恵心僧都(源信)作の阿弥陀如来坐像。
印相は、阿弥陀の定印(両手を膝の上に組み左右の第一、二指を結ぶ)

※源信(げんしん)は、比叡山の横川の恵心院に住したことより恵心僧都と言われる。天台教学を究め、『往生要集』(おうじょうようしゅう)三巻を著し、阿弥陀佛の浄土を欣求することを勧めた。真宗の七高僧の第六祖

私が幼少の頃、この像は、本堂の西の場所に安置されていました。祖父や父の話では、秘仏として本堂裏側の須弥壇の部分に安置されていたようです。 昭和60年までに妙華寺会館ができ、それから会館に安置されていました。平成23年5月初旬に、本堂西にある資料室にご遷坐いたしました。会館には、妙華寺の一光三尊佛を安置しています。

声明(しょうみょう)公演in国立劇場

声明(しょうみょう)
声明(しょうみょう)とは、仏教儀式において僧侶が唱える声楽を指すそうです。(浄土真宗の声明真宗高田派本山専修寺の「報恩講式」 独立行政法人日本芸術文化振興会発行より)真宗の私達の一番大切にしています行事の報恩講(お七夜)でのお勤の「式文」拝読も語り物として後世の浄瑠璃音楽の祖型をなすもののようです。平素はお勤めとしか思っていないものを声明公演として、妙華寺の関東のお同行様にお声をかけさせていただき、一緒に国立劇場で鑑賞する機会を得ました。
本堂でのお勤めでは、ご本尊(親鸞聖人)に向かっての讃嘆ですので後ろの大間(だいま)にいる私達は、ご法主殿の後姿を拝見しながらのお勤めですが、公演の舞台では、観客の方に向かっての「式文」拝読です。ご法主殿、出演される法中(ほっちゅう)様が観客に向かって着座されている姿を拝見できるのは、今回の公演の機会しかないと思いました。
舞台両脇の面に、お勤めされている文言が紹介されながらの聴聞も公演ならではのことです。本堂での報恩講(お七夜)では味わえない形で「報恩講式」を聴聞できる機会に恵まれましたことに感謝しています。
帰りのバスの車中で声明公演を鑑賞されました小田原のご高齢の方(高田派のご門徒様とは違います)は、昨年津市の専修寺にお参りされたり栃木県の本寺へも行かれたりと高田派にご興味を持たれて、「声明公演」で初めて「報恩講式」をお聞きされ「良かった」との声をいただきました。また西本願寺の寺族の方からは終わってから本願寺の「報恩講式」とは「読み方」が違うことを教えていただきました。


声明公演の始まる前の午前中は東京のお同行様に、6月にできた東京ミッドタウン日比谷を案内していただき、続いて創業150年の稲庭うどん店で昼食をいただいて東京の今昔も合わせて感じることができました。

現代と仏法を考える集い

現代と仏法を考える集い
もう22回(年)を迎える高田本山の教学院主催の「現代と仏法を考える集い」は、今回『寺院崩壊?パートⅢ』として「魅力ある寺院への再生」と題して、『寺院崩壊?』シリーズの最後となるようです。ご講師は、浄土真宗本願寺派の大阪の正福寺のご住職の末本弘然師でした。本願寺出版社に勤務され長年本願寺新聞で全国の(浄土真宗本願寺派)お寺を訪れたり、取材しながら、これからのお寺のあり方に危機感を持たれ、自坊で実践されています仏教に基づく地域コミュニティ「ナムのひろば」を立ち上げられたことを中心にお話されました。
私(住職)が一番感じたことは、住職としての「覚悟」でした。生活者にお寺が必要ないと思われれば寺院が崩壊(消滅)しても仕方がないという視点からの実践です。
ご講師ご自身が、「アミダ」様に救われているお一人であることをお寺のある地域の皆様にどのようにお伝えできるかの一つの方策として「ナムのひろば」を立ち上げられたことです。
そして「ナムのひろば」を立ち上げられるまでの長い時間(機が熟す)が大切だったように思いました。 お寺の行事は1年単位のリピート(繰り返し)行事であります。どこのお寺でもそうですが年々ご参加(聴聞)されるお同行様が少なくなっています。参加(聴聞)されます皆さんに飽きられない工夫や魅力を加えていかなければ、ご講師が仰られる寺院崩壊も現実であるように思います。また、お寺の住職は「アミダ」様の働きを讃嘆していく力をもっと磨いていかないといけないと仰せられたように感じました。
これまで3年(3回)の研修では、①現状のお寺の危機感を共有して、②これまでの危機感(真宗と習俗)を振り返って、③これからのお寺のあり方を考える研修でした。僧侶だけで考えるので無く、お同行様や生活者と共に考えることが大切と感じています。

(※中川個人の感想です)

墓じまい

墓しまい
お盆の期間にHPで「墓じまい」についての記事が掲載されていました。

最近「墓じまい」と言う言葉を耳にしますが、これまでも「お墓」の後継者がいらっしゃらない場合や今後難しくなる場合に、

「お墓」をどうしたらよいかご相談がございます。

妙華寺では、「お墓」の継承が難しくなりますと「お墓」の撤去をお願いしています。
石材店に見積もりを取っていただきご了解をしていただき「お墓」を撤去していただきます。
 撤去の後、これまでのお骨がございましたら境内地の「倶会一処」に埋葬いたします。
妙華寺では、下記の記事に掲載されています「離檀料」などをお納めいただく必要はございません。

ご注意していただく点としては、
①これまでのお骨を別の「お墓」に埋葬する場合は、先に、妙華寺の住所地の津市(行政機関)に「改葬許可申請届」をお出しいただき、「改葬許可書」をとっていただくことになります。
②「お墓」自体の移設の場合は、移設先の墓地管理者に可能かどうかご確認してください。

 

【墓じまいの記事】2018/08/11 16:00

墓じまい”は簡単じゃない? 根回しや高額出費も…専門家が解説

管理する人がいないなどの理由から、お墓をなくす“墓じまい”を選択する人がいる。お墓を更地にするだけなら、別に大変ではないのでは……というのは甘い考えで、実は数多くのプロセスが必要となる。その一部をご紹介する。
「父方の祖父母が眠るお墓が神戸市の山の中にあるのですが、最後にお参りできたのは2年前。高齢化で墓参する人が減ったせいか、昔からあった近所の花屋も閉店してしまい、せっかく来たのに花すらお供えできなかったのが申し訳なくて……」と語るのは、関西出身ながら東京で30年近く生活する会社員のAさん(52)。Aさんのような東京在住の地方出身者にとって、「高齢になった両親が亡くなったら、故郷のお墓を誰が管理するのか?」は“今そこにある難題”である。
少子高齢化、都市部への人口流入、先祖供養に対する意識の変化などを背景に、今ある墓を別の場所に移す「改葬」または散骨などによる「墓じまい」を迫られる人が増えている。いずれも、生身の人間の移動に比べ、「遺骨」を墓から取り出して別の場所で供養するまでの作業には驚くほどの手間やお金がかかる。改葬はまだしも、墓じまいは墓を更地に戻すだけでしょう、と思ったらこれが大間違い。
「墓じまいというと、田舎にある誰もお参りできないお墓をなくす手続きをしておしまい、と思われている方が多いようです。でも遺骨をそのまま放置しておくわけにはいきませんから、古い墓を撤去したら、その中にあった遺骨を必ずどこか別の場所に移さないといけません(散骨や永代供養も『移す』という考え方)。つまり新しい場所への遺骨の移動が完了して初めて、『墓じまい』といえるのです」
と強調するのは、葬儀・お墓・終活ソーシャルワーカーの吉川美津子さん。ちなみに墓の中の遺骨を勝手に処分するのは犯罪だ。刑法190条の遺骨遺棄罪に問われると、懲役3年以下の刑に処される可能性すらある。
「墓地埋葬法ができた1948(昭和23)年以前に建てられたお墓は、村単位で管理していたり、田んぼや畑の中にあったりして、土地の権利関係も非常に複雑です。今から70年以上前というと、地方によっては土葬も多かった時代。現在は火葬して焼いた骨、つまり焼骨しか受け付けてくれません。もし墓じまいしようと思っているお墓から、土葬されたと思われる先祖の遺骨が出てきた場合は、そのご遺体の分も、自治体から火葬許可証をもらって、火葬場で骨をもう一度焼く手間も必要になります」
墓じまいには、とにかくたくさんの証明書や許可証が必要になる。その書類は大きく分けて三つ。新たな遺骨の受け入れ先からもらう「受け入れ証明書」、遺骨が確かにその場所に埋まっていたことを現在の墓の管理者が証明する「埋蔵証明」。この二つの書類に、現在、墓がある土地の自治体が発行する「改葬許可申請書」(埋蔵証明との一体型もあり)を添えて提出することで、初めて「改葬許可証」を発行してもらえる仕組みだ。
証明書を機械的に集めればいいわけでもない。墓じまいの各ステップには、気苦労の多い根回しや手続き、高額の出費が待っている。最初の難関は、家族や親戚の了承を得ること。墓を守る地方在住の両親が健在の場合、「先祖代々のお墓を移動するなんて、もってのほか」と否定的な意見もある。
「長年、檀家として支えてきた菩提寺からお墓を撤去するには、檀家を抜ける際に支払う離檀料やお墓から魂を抜くための抜魂法要のお布施を渡す必要があります。その相場は通常のお布施が5万円なら、その2~3倍の10万~15万円が目安です。寺院に何の相談もせず事務的に手続きを進めたことで関係がこじれ、100万円以上の離檀料を要求された人も。提示された離檀料を拒否すると、墓じまいに必要な埋蔵証明への署名を渋るケースもあるようです。なるべく円満に、事を荒立てず、墓じまいせざるをえないこちらの事情を理解してもらうことが大切になります」(吉川さん)
(経済ジャーナリスト・安住拓哉/編集部・中島晶子)
※AERA 2018年8月13-20日合併号

和讃

和讃をご紹介いたします。和讃について多くの参考書がありますが、『注解 国宝 三帖和讃』常磐井鸞猶著と『浄土高僧和讃講話』川瀬和敬著より紹介します。

浄土高僧和讃 曇鸞和尚 第19首

無碍光の利益より 威徳廣大の信を得て
必ず煩悩の氷とけ 即ち菩提の水となる

阿弥陀佛のきわなき光の恵みの中から、すばらしい力と徳を持った広やかな信を得て、
浄土に生まれる身とさせていただくと、必ず煩悩の氷がとけ、それがそのままさとりの水と変わる。

(利益)より 諸註「により」の意とするが、「から」の意にとっても不都合はない。

以上 【注解 国宝 三帖和讃 常磐井鸞猶著より】

阿弥陀佛のさわりをさわりとしない光明智慧よりもたらされるご利益として、「威徳侶無く」「功勲広大」なる廻向の信心を賜ることができ、それによって必ず煩悩の氷もとけ、そのまま菩提の水と変わります。氷と水の譬えは非常によく分かります。転変でありつつ、もと一体であることにえなずくのですが、さて煩悩と菩提とのものがらが一つであること知るには、体験実証によるほかありません。無明が明に転ずる次第も同様です。
すでに第11首にも「他力広大威徳の心行」とありましたように、自他に向かって信が威徳広大であることを語りたく、「行文類」にも、仏の威徳広大を聞くが故に、不退転を得るなり。と見えます。信心はわが胸の中に小さく抱きこむもの、との勘違いもなきにしもあらずだが、実は信心は広大なのです。中空の星を眺めて感じる広大はあっても、わが身に即しての広大は、信心においてはじめて実証するのではないでしょうか。広大なる信のうえに威徳がかがやくのです。

以上【浄土高僧和讃講話 川瀬和敬著より】

一光三尊仏(阿弥陀三尊)

今年は、毎月10日に法苑院妙華寺を紹介していきたいと思います。
一光三尊仏(阿弥陀三尊)立像
中尊 阿弥陀如来立像 木像 玉眼・寄木・金泥 像髙 39.7cm 江戸時代
脇侍 観音菩薩    木像 玉眼・寄木・金泥 像髙 28.9cm 江戸時代
脇侍 勢至菩薩    木像 玉眼・寄木・金泥 像髙 28.4cm 江戸時代

像と一具の厨子に安置される一光三尊仏で、通常は妙華寺の宝庫に保管されている。(現在 妙華寺会館に安置)中尊の頭部形状、脇侍の五角形の宝冠や裳(ころも)の形状等、高田山式の一光三尊仏の特徴を顕著にあらわしている。また、両手足の指の爪をあらわすなど、細部にまで行き届いた丁寧な表現をみせている。像や厨子等に年号や作者等を示す銘文はまったく見当たらないが、作風から判断して18世紀末から19世紀の初め頃に制作された像と考えられる。

【親鸞 高田本山専修寺の至宝の図録解説より】

 

※奈良国立博物館で8月26日まで『糸のみほとけ』展が開催されています。

展覧会のHPには、「日本では刺繡(ししゅう)や綴織(つづれおり)など「糸」で表された仏の像が数多く作られました。とりわけ、古代では大寺院の一堂の本尊とされる花形的存在でした。綴織當麻曼荼羅(つづれおりたいままんだら)(国宝、奈良・當麻寺蔵)や刺繡釈迦如来説法図(ししゅうしゃかにょらいせっぽうず)(国宝、奈良国立博物館蔵)は、その隆盛のさまを伝える至宝です。また、糸を縫い、織る行為は故人の追善につながり、聖徳太子が往生した世界を刺繡で表した天寿国繡帳(てんじゅこくしゅうちょう)(国宝、奈良・中宮寺蔵)が生み出されました。鎌倉時代以降、刺繡の仏は再び隆盛を迎えますが、その背景には綴織當麻曼荼羅を織ったとされる中将姫に対する信仰がありました。極楽往生を願う人々は中将姫(ちゅうじょうひめ)に自身を重ね刺繡によって阿弥陀三尊来迎図(あみださんぞんらいごうず)や種子阿弥陀三尊図(しゅじあみださんぞんず)を作成しました。
この展覧会は綴織當麻曼荼羅の修理完成を記念し、綴織と刺繡による仏の像を一堂に集める特別展です。天寿国繡帳、綴織當麻曼荼羅、刺繡釈迦如来説法図の国宝3点が一堂に会する空前の企画です。本展を通して絵画とも違う「糸」の仏の世界の魅力をご鑑賞いただければ幸いです」とあります。
木像とは違う、三尊仏も出展されています。ご興味のある方はお運びください。