和讃

和讃をご紹介いたします。和讃について多くの参考書がありますが、『正像末法和讃講話』川瀬和敬著より紹介します。

無慚無愧のこの身にて まことのこころはなけれども
弥陀の回向の御名なれば 功徳は十方にみちたもう

『正像末法和讃』「愚禿悲歎述懐」第4首
「無慚無愧」、これは聖人の大事なお言葉です。慚愧(ざんぎ)と懺悔(さんげ)、初めにこの2つのちがいをみておきたいと思います。懺悔は人に向かうのではなくて仏に向かう。仏前にわが犯した罪を懺悔してたてまつるのです。慚愧の方は内心に向かう。慚愧について詳しいのは『涅槃経』です。一番簡単なのは、人間と畜生を区別する言葉です。「慚愧なきを畜生と名づく」というのです。阿闍世王が親殺しの大罪を犯して後に、慚愧の心がでてくる。こういうところが非常に大事なところです。あの老婆が阿闍世のこころの動きをよくとらえて、あなたは今まで自分の罪を認めまいとしてきた。ところがあなたは今や、慚愧の心がおこってきた、それが大きな転換点になります、貴重なことです。こういって阿闍世を大きく抱き込んでいく。そういうところにでてきます。
それから「懺悔」につきまして、これは「高僧和讃」の善導のところにでております。「三品の懺悔するひとと、ひとしと宗師はのたまへり」。「三品」というのは上・中・下の三品という、人間の種類です。ぞれ三様の懺悔の内容を異にするが、ご信心をいただいた人は、懺悔のことをわざわざいわなくても具わっているのだと、こういう言い方です。それで善導のところで善導の「懺悔」という言葉をお使いになりましたが、それ以外に聖人は「懺悔」という言葉をとりたてて申されません。この「懺悔」というのは、我の混らないもの、「後悔」というのは、これは我執の仕事です。「懺悔」とは「我の砕けたすがた」です。それで聖人は懺悔ということはわれらにできない、と見抜いていられたようです。だから懺悔するとも懺悔せよとも言われない。だから「懺悔せよといわれても懺悔できない私だ」という言外のおこころをくめば、深い懺悔をそこに感じます。

聖人は普通の宗教家のいわれる「懺悔」ということを、殆ど口にしておいでにならないということです。そうでありながら「慚愧」については、自分を「無慚無愧」の身だと語っておられる。慚じねばならぬことを愧じずにおるような身だというのです。善人の姿をながめて私は悪人だと慚じ、賢い人の姿をながめて、何と私は愚かであろうと自らを愧じると、こういう言葉です。いろいろな意味がありますけれども、「慚」というのは、自分と教えに対して恥ずかしいと愧じることです。
『涅槃経』には「慚愧あるが故に、父母・兄弟・姉妹であることを説く」。もし慚愧ということがなかったら、父母というようなことも言い得ないということです。人間の一番大事な関係をして関係たらしめるものは慚愧であると、こういう言葉です。

しかもこの言葉を受けて無慚無愧のこの身のうえに「弥陀の回向の御名なれば」弥陀のご回向、南無阿弥陀仏を回向して下さったればこそ、「功徳は十方にみちたまふ」、この蛇蝎奸詐、無慚無愧の私を貫いて、骨髄に徹(とお)って、その光が十方に満ち溢れて下さる。この弥陀の回向の御名というものの光をこうむらないものは一人もないのであるからして、悲喜こもごもに至るのであります。

以上【正像末法和讃講話 川瀬和敬著より】