お寺の敷居

お寺の敷居
お寺で生活する宗教者(僧侶)は、あまり気づいていませんが、生活者から「お寺の敷居は高い」とか「お寺に行くときは緊張する」とか聞くことがあります。また、江戸時代から「坊主まるもうけ」との声も聞こえてきます。「坊主まるもうけ」の件は次の機会に考えてみたいですが、「お寺の敷居は高い」や「お寺に行くときは緊張する」ことについて考えてみたいと思います。

私(住職)自身の個人的な性格からくる気持ちかもわかりませんが、私(住職)も、初対面の方と会うときはとても緊張しています。また何度かお会いした方ともある程度緊張(距離)感を持ち続けています。
私(住職)は「お寺の敷居が高い」と感じたり「お寺へ行くときは緊張する」と感じるのは、生活者と宗教者の関係性が希薄なことから来るものと考えているのですがどうでしょうか。

また、お寺は全国にコンビニのお店以上あると言われています、日本の宗教団体の信者としてカウントされる数字は、日本の人口以上の数字になることも報告されています。
一方、宗教者数は人口の何パーセントでしょうか。詳しく調べていないので的外れになるかもわかりませんが、1パーセントにも満たないのではないかと思います。そう思うと宗教者と(地域や職場などで)関係性がある生活者は、それほど多いは思われません。

個人として、私(住職)の場合、大学卒業後10年勤めていた市役所で顔を知る職員は数多くいましたが、話を(交流)する職員は100人もいなかったと思います。高田本山宗務院(本山)で勤務していた時は、宗派の僧侶が主で50人くらいの方と話ができる関係だったと思います。お寺のお同行さんが500軒としても全ての方を知っているわけではないし、葬送儀式やお寺の行事でお会いする関係性であります。個人的な年賀状のやりとりも100人ほどです。多くの方と関係性があり活動されている宗教者もいらっしゃることは存じていますが、私(住職)個人として考えれば社会でそれほど多くの方と関係性があるとは思えない生活者の一人であります。

いろいろな事情を振り返りながら、「お寺の敷居」の問題を解決することができるかと考えています。
その1つが、宗教者と異業種の方との交流です。
日本に仏教が伝来したときから、お釈迦様の教えを実践する1つの形として、世の中で困窮した生活者を救済する為、医療・福祉・教育関係の施設などを寺院も併設していました。今も仏教系の医療・福祉・教育施設は存在しています。
しかし、個々の生活者の視点から見ると、宗教者(特にお坊さん)は、世の中のことにコミットしていない存在と思われているのも事実だと感じています。

お寺として考えることは地域で行われているさまざまな活動の中からお寺と交流できそうな活動とどのようにコミットできるか。ありふれた事ですが、お寺の場の提供であったり、宗教者としてのゆるやかなスピリチュアルケアから生まれるものと私(住職)の場合は考えています。そして私(住職)にできることから始めようと思います。