ひとくち法話

他力(たりき)
何もしないで、他人まかせで甘い汁を吸うような事を表現するのに、他力本願という言葉が使われています。真宗の他力の救いをこのように理解している人はいないでしょうか。これは、間違いであり誤解です。
親鸞聖人は、比叡山における20年間の自力修行(じりきしゅぎょう)によっては、どうしても生死(しょうじ)出(い)ずべき道が得られず、苦悩の末に吉水の法然上人を尋ねて、他力念仏に転入されました。
そのことを自ら「雑行(ぞうぎょう)をすてて、本願に帰す」と述べられました。
本願とは阿弥陀仏が誓われた根本の願いです。私たちを救わずにはおかないという誓いです。この阿弥陀仏のお誓いを疑いなく素直に信じて、お任せすることが肝要(かんよう)であります。これを他力といいます。
聖道門(しょうどうもん)の人(ひと)はみな
自力(じりき)の心(しん)をむねとせり
他力不思議(たりきふしぎ)にいりぬれば
義(ぎ)なきを義とすと信知(しんち)せり
『正像末法和讃 54首』 と、聖人が和讃されておられます。
「義といふことは、はからうことなり、行者のはからひは自力なれば義というなり、他力は本願を信楽(しんぎょう)して往生決定(おうじょうけつじょう)なるゆへにさらに義なしとなり」と聖人のお手紙にも度々書かれております。すなわち真宗の教えでいう他力は、他人(ひと)まかせのことではなく、また、物理的な自然現象でもなく、阿弥陀仏のお働きをいうのです。仏力(ぶつりき)です。

※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

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