和讃をご紹介いたします。和讃について多くの参考書がありますが、『注解 国宝 三帖和讃』常磐井鸞猶著と『正像末法和讃講話』川瀬和敬著より紹介します。
釈迦弥陀の慈悲よりぞ 願作仏心は得しめたる
信心の智慧に入りてこそ 仏恩報ずる身とはなれ
釈迦弥陀の二尊の大慈悲によって 私どもは大菩提心を頂くことができた
は即ち、如来より賜る信心の智慧であって この信心の智慧を得ればこそ、仏恩を感じてこれに報い奉ろうとする身とはなるのである。
願作は、仏になろうと願う心
以上 【注解 国宝 三帖和讃 常磐井鸞猶著より】
『正像末法和讃』第33首
「釈迦弥陀の慈悲よりぞ」の表現は、国宝本にも文明本にも「釈迦弥陀」となっております。こういう場合は「釈迦弥陀二尊」「二尊一致」ですから、この「一」に着目しておいでになるのだと思います。こういう聖人のお言葉というものは、ご恩を感じての深いおもいです。「釈迦弥陀」「弥陀釈迦」と、弥陀のなかに釈迦が生きつづけておいでになる。われらに慈悲をもたらしめたもう二尊のご恩のかたじけなさを詠っておられるのであります。「釈迦弥陀の慈悲よりぞ 願作仏心はえしめたる」、「願作仏心」というのは、前に何度もでてまいりました「浄土の大菩提心」であります。「仏になりたいと思って弥陀の誓いを信ずる心」、これが「願作仏心」です。国宝本の左訓に、「われをしてほとけにならしめたまえと、ちかいをしんずるこころ」とあります。「釈迦弥陀二尊の温かい、こまやかなおはたらきによりまして、私の身に願作仏心をたまわることになりました」と。そうしてその「願作仏心」のことを言葉をかえて、つぎに「信心の智慧にいりてこそ」、国宝本左訓には「弥陀の誓いは智慧にてましますゆえに、信ずる心のいでくるは智慧の起こると知るべし」とありまして、「信心となって生きて働く智慧に入ることができてみますと、仏のご恩を報ずるというよろこびがわいてきたのであります」と。「仏のご恩を報ずる身」とならなければ、これはわが身に何ごともおこらなかったということです。聖人が「正信偈」をお作りになるときにも、「知恩報徳の為に」「恩を知りて徳を報ず」「仏恩の深遠なるを信知して」といっておられます。だから、仏恩を報ずる心がおこったことが、信心だということです。信心のしるしということは、ご恩かたじけなしという思いがわが身におこってくることです。ご恩を感ずるということは、わが身には、ほこるべきものは何もないということです。自我妄執が砕け散るばかりです。
以上【正像末法和讃講話 川瀬和敬著より】