2月の日曜学校

2月の日曜学校
高田派では平素のお勤めで和讃は、『浄土高僧和讃』を5首ずつ拝読しますが、妙華寺の修正会での和讃は、『浄土和讃』の中の「現世利益和讃」15首を拝読しています。今年の修正会で、「現世利益和讃」の15首を印刷してお配りし一緒にお勤めしようとしました。11首目からお配りした「現世利益和讃」と勤行本の11首目が違っていて参詣された皆様にご迷惑をおかけしました。印刷した「現世利益和讃」は、高田聖典によるもので、国宝本の「現世利益和讃」を印刷していました。平素お勤めに使う勤行本では、一般に「文明本」と呼ばれる配列で記載されています。その配列の方が、内容の連なりとして自然であると言われています。
三帖和讃
親鸞聖人が著した『浄土和讃』『浄土高僧和讃』『正像末法和讃』の総称。浄土真宗の法義を余すところなく讃嘆されていることから「和語の教行信証」ともいわれる。このうち『浄土和讃』と『浄土高僧和讃』は、宝治2年(1248)、親鸞聖人76歳の時に成立し、その後も補訂が続けられた。また『正像末法和讃』は正嘉2年(1258)親鸞聖人86歳の時に一応成立し、その後もかなりの補訂が行われている。親鸞聖人と真仏上人の筆による高田派専修寺蔵国宝本が現存するほか、古写本には高田派専修寺蔵正応3,年顕智書写本(『高僧和讃』は現存せず)などがある。最も流布したのは、蓮如(本願寺派)が文明5年(1473)に「正信偈」とともに出版した「三帖和讃」(「文明本」)
これらの諸本の間には、和讃の本文や配列順序、左訓の有無など異同も多い。
【以上浄土真宗辞典 本願寺出版社】
『解説 三帖和讃』 平松 令三著
第一章 真宗教団の中での和讃の位置
親鸞聖人と和讃
仏教寺院で歌われる仏教歌謡の一種に「和讃」がある。語源を調べると、漢文で綴られた漢讃に対して、和文で仏法を讃嘆する歌謡だったので和讃と呼ばれた。その成立は、大陸との政治的文化的交流が打ち切られた平安時代の半ばころ、文化の和様化が進んだ時期であった。折からの浄土信仰の隆(たか)まりと軌を一にしていて、浄土教系の法会の中で詠唱されることが多かった。恵心僧都源信や空也上人などが和讃を作って、奨めたというが、「これがその和讃だ」と確認するだけの史料は伝わっていない。
和讃の形式もいろいろだったらしいが、やがて七五調の和讃が主流を占めるようになり、鎌倉時代に入って最盛期を迎えることになる。そこへ登場したのが親鸞聖人であって、聖人ほど数多くの和讃を制作した人はいない。聖人の和讃はすべて七五調で、四句を一首とするが、その制作数はいまわかっているだけでも優に500首を越える。しかもそれらの多くは優雅で格調高く、文学作品として優れているだけでなく、高度な思想内容を持っている点で他に比類がない。和讃史上、質量ともに抜群の存在として評価されている。その代表作が『浄土和讃』『浄土高僧和讃』『正像末法和讃』のいわゆる『三帖和讃』である。
【以上 解説 三帖和讃 平松 令三著】
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