親鸞聖人のご生涯をとおして
【第12回】承元の法難(じょうげんのほうなん)
奈良の興福寺が、朝廷に念仏禁止を訴えている時、念仏教団にとって大変困ったことがおきてしまいました。
それは、住蓮・安楽という法然上人の弟子が、念仏の集会を催したところ、後鳥羽上皇に仕えていた女官数名が、その集会に参加し、念仏こそ私たちが救われていく教えであると確信し、髪をおろしてしまったのです。これを聞いた上皇は激怒しました。そして興福寺の訴えを受け入れ、ついに承元元年(1207)に風紀を乱すものとして念仏教団を解散させてしまったのです。
そして、住蓮・安楽ら4名を死罪に、法然上人をはじめ七名を流罪にしました。親鸞聖人もその一人で、越後、今の新潟県の国府に配流となりました。これが世にいう「承元の法難」で仏教史上、類をみない弾圧事件でした。
ときに法然上人は75歳、親鸞聖人は35歳でした。親鸞聖人は、師・法然上人とのお別れに際し
会者定離 ありとはかねて聞きしかど きのう 今日とは思はざりしを
と、詠われました。そして、法然上人は
別れゆくみちははるかにへだつとも こころは同じ 花のうてなぞ
と、詠まれたと伝えられています。これがおふたりの今生の別れとなりましたが、次はお浄土で会えるという喜びの詩でもあるのです。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より