和讃

和讃をご紹介いたします。和讃について多くの参考書がありますが、『注解 国宝 三帖和讃』常磐井鸞猶著と『浄土和讃講話』川瀬和敬著より紹介します。
浄土和讃 諸経意阿弥陀仏和讃8首
歓喜信心無疑者おば 興諸如来等と説く
大信心は仏性なり 仏性即ち如来なり
 信心を喜び、仏智を疑わぬ人を如来と等しい人であると説く。この大信心は仏になる因子に他ならず、この因子そのものが如来なのである。
※歓喜信心無疑者おば 興諸如来等と説くの二句、他本「信心よろこぶその人を如来とひとしとときたまふ」
※興諸如来等と説く もろもろの如来と等しと読む。華厳経に説かれている。
以上 【注解 国宝 三帖和讃 常磐井鸞猶著より】
 最初の二行は「文明本」には「信心よろこぶその人を如来とひとしとときたまふ」とやさしくなります。『大方広仏華厳経』「入法界品」最後の偈頌に「阿弥陀 観世音菩薩」とか、「如来一音をもって説き、各所応に随って解す」とかあって、一番終わりに「此の法を聞きて歓喜し信心疑無き者、速やかに無上道を成じ諸の如来と等し」とあるより出ているのです。「聞其名号信心歓喜」の座をもって華厳経を読んでいるのですから、「この法を聞きて」というのも所応にしたがって本願名号となっているのです。「信心の人は如来に等しい」という根本主張を、そのよるべとして華厳経に求められたのは、此の経が正覚成就の最初説法の威力に輝き、同時に大乗仏教の高峰として涅槃経と並ぶものであるによります。それだから涅槃経によって如来の讃歌が数首続いているところへ、にわかに華厳経のまたたきを見ますのは、大乗の全景を尽くすためです。
歓喜信心は信心をよろこぶことですが、むしろ歓喜はそのまま信心なのです。二つあるのではなく信心の内実が歓喜です。信心を表現するならば無疑と歓喜としてあるといわねばなりませんが、ともに人間性のどこかから生みだされるものではありません。自力は疑心としてしかありようがなく、煩悩もまた堪能するほどのよろこびを与えますから、その混同をよく警戒して信心の歓喜には白紙で向かわねばなりません。人の生きる条件が不本意にゆがめられようとも、信心のよろこびはそれによってたじろぐものではないのです。
第三行には、「われらが弥陀の本願他力を信じたるを大信心という。無上菩提に至るを大信というなり」との左訓を見ます。菩提心のかけらもないわれらには、たすかる力は自分自身にありませんから、救いは他力として彼方から来ます。如来の本願だけが他力のはたらきをもちます。信心が成就したことが、本願他力なのです。さきの第六首のときに掲げた『涅槃経』文のままにこのようにうたわれるのですが、この第八首の主題は信心が如来だというのですが、これは同時に救うものは弥陀、救われるものは衆生、この二者には絶対の隔絶のあることを離れてはいけないのです。しかもこの救いも大乗の軌道の上を走ります。如来の心がはじめてわれにとどいたよろこびは、そこにうたがいのはいる余地はなく、この信心はもろもろの如来と等しいのだと説かれます。無碍広大の信心は、悉有仏性の仏性そのものであり、その仏性はそのまま如来であって、すべての存在を真実であらしめようとするはたらきなのです。『涅槃経』には「真実は如来、如来は真実、真実は仏性、仏性は真実」と縦横に説かれて、今の和讃にも力を与えます。
以上【浄土和讃講話 川瀬和敬著より】
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