12月の聞法

12月の聞法

3日は、龍谷大学大宮学舎で宗学院公開講座で「死んだら終わりですか?」~臨床仏教ということ~の講題で、大谷大学学長の木超康師のお話をお聞きできました。「臨床仏教」とは、鷲田清一氏の『「聴く」ことの力-臨床哲学試論-』から臨床を「場」として捉えることから、仏教や真宗(学)も、「理(論)」から「(現)場」を中心に捉え直そうとされています。きっかくは、東日本大震災の現地でのボランティア活動から、子どもさんを津波でなくされたお母さんの「死んだら終わりですか?」の言葉だったそうです。その言葉の奥にある心情を考えることから、教学の近代化でもれていった「人のココロ」を見据えた「臨床仏教」としての仏教学や真宗学を提唱されています。これまでもそうですが東日本大震災の頃、真宗の僧侶の中でボランティア活動について、親鸞聖人のみ教え(教学)からどうなのか議論が沸き起こっていました。そのような中で木越先生は『ボランティアは親鸞の教えに反するか?』を著されたのだと思います。

17日の第816回の紫雲会に伺うことができました。今回は、京都の若手僧侶の法話勉強会「コンパス」に所属され、研鑽され、社会人としても活躍されている20代・30代の4人のご法話でした。それぞれのお味わいと阿弥陀様の讃嘆に、久しぶりにゆっくり法話をお聞かせいただく時間でした。ご法話の中で各人の祖父・祖母のことが語られ、私(住職)自身も祖父・祖母のことを思い出しながらの聞法でありました。不確かな私が不確かな世界を生きているのですが、身内の死を通してこの私が阿弥陀様の願いに遇うことになるまでの経験を聞きながらあたたかい気持ちになりました。また、『仏説阿弥陀経』(お経)にある「倶会一処」のことも、お念仏に出遇わなければうなづくことができない世界なのかと感じたりしました。明日を頼みにするわけでないけれど、後10年前後で、祖父・祖母の50回忌です。その時、私(住職)はどのような状態で、報恩感謝のお念仏に包まれているのでしょうか。
※「コンパス」さんは、3年前の春、妙華寺で法話大会・茶話会を開催していただき主管されていらっしゃる中西正導師とうれしい再会でした。また、中西正導師の法話が掲載されている冊子などもいただき帰ってから拝読させていたたきました。