6月は、これまで中止が続いていました聞法会が再開されました。そして、オンラインの講座に参加させていただきました。
オンライン勉強会 bラーニング 「遺品整理」
最近の話題として、一人暮らしの方の孤独死が取り上げられる中で「遺品整理」の勉強会でした。
「死後事務委任」の中では「遺品整理」について聞くことはあまりないと思うのは私だけでしょうか。
年間46,000人にのぼる孤独死の多くは、周辺に異臭が漂って発見される場合が多いと聞きました。講師先生から講義の初めに「離れている家族にいつ連絡をとりましたか」と問われたとき母を想い何か切なさを感じました。孤独死の部屋を清掃することの大変さは分かっているつもりでしたが現場の写真や、映像では伝わってこない臭いを考えると、専門的な知識や装備が必要で、素人の遺族がすることは難しい状態だと改めて教えていただきました。そこに遺された遺品を整理(処分)することは遺族が立ち会えば良いと考えますが、やはり難しいこともありそうです。
遺品整理をするにあたっての資格があることは知りませんでした。また、処分する家財などを廃棄することや古物としてリユースする場合もあり知っておくべき法律などたくさんあるようです。
そのような中で、「遺品整理」をされている第三者(他者)が、亡くなられた方と遺族をつなげる想いを、遺された物から伝えることには、大変なご苦労があることを感じました。 私(住職)は、生前から関係を持っている一人暮らしの檀信徒様が亡くなられてもその方の想いは、言葉だったり行動だと考えていて、その方の生活空間にある品物から想いを馳せることはこれまでありませんでした。他者から見ると普通の品物でも、亡くなられた方や遺族にとっては大切な想いがつまっていたりする伝えたい品物があることを知り、生きている間にもう少し伝える時間を作ることができればと感じました。
また、孤独死する前に一人暮らしの方を見守る関係を築くのに地域の僧侶が関わることができることをお聞きして考えてみたいと思っています。
講師先生の熱い想いをお聞かせいただいた貴重な時間でした。
※中川個人の感想です。
4ヶ月ぶり紫雲会
COVID-19(新型コロナウィルス感染症)感染防止で3月から中止されていた紫雲会が開催されました。梅雨に入りましたが晴天で爽やかな風が、本堂を吹き抜ける一日でした。これまでより人との距離をとっての開催です。ご講師は、貴島信行師で昨年から始まった「12のひかり」として讃阿弥陀仏偈和讃からのお話です。先生も3月に「庄松」さんの150回忌法要の時の出講から5月まですべてがキャンセルになって今回、県境を越えて紫雲会でのお話が初めてだそうです。
今回は、阿弥陀如来を12の光の中の「無辺光」と「無碍光」として仰ぐことをご自身の言葉でお聞かせいただきました。光と闇を「明来暗去」の言葉で、「有無の見」を蓮如上人の「他力無我」の言葉でお聞かせいただきました。「かたちがないものを、かたちあるものを通して伝えていく」中で「おまけ(御負け)」の姿勢をお聞かせいただきました。
そして、講師先生の「安心」と「安全」についてCOVID-19(新型コロナウィルス感染症)の自粛期間を通しての気づきが響いてきました。
余談の部分ではありましたが講師先生のお母様がいつも口にしていた「お育て頂いています」の言葉が、自分(お母様)のことであったと後になって気づいたことや、真宗では、「行」は「大行」ですが、「汗をかいて聞法すること」「身を削って聴聞すること」今の時代では時代遅れととらえてしまいがちのお話も、久しぶりにご法話をお聞かせいただく場では強く心に迫るものがありました。オンラインと違い、会の始めの勤行と最後の「恩徳讃」で他の参加者と共にお勤めできることも「集う場」があることとして、改めてうれしく感じました。
※中川個人の感想です。
オンライン講義 KOKOROアカデミー
東京の築地本願寺の講座に参加できました。COVID-19(新型コロナウィルス感染症)感染防止で中止していた講座がオンラインで開催する試みに参加させていただきました。
本来ですと、東京の会場に足を運ばなければ聴講することができない講座ですが、今の時期だから可能なことで貴重な体験でした。
「釈尊にまなぶ仏教の初歩」として連続講座を開催されている一コマでした。ご講師は、丘山願海師で私はオンラインで初めての参加ですが、これまで続けて参加されている皆様との再会を大変喜ばれていました。今回のテーマは、①「コロナ禍」で何を感じ、考えたか②宗派からのメッセージを通して、宗教者の思いをお話されました。③「諸法無我」と「法灯明・自灯明」についてお聞かせいただきました。
「コロナ禍」での問題として、疫病から派生する「差別・偏見」が顕在し、人と人の「つながり」が問われているように感じました。 今こそ「つながり」を再確認していく時だと感じました。また、私たち宗教者からの発言(発信)はどうなのか。大きな社会問題の度に問われることです。言い訳に聞こえてしまうかわかりませんが、日本の仏教会や宗教者も何もしていないのではなく、情報発信が上手でないことで反省するばかりです。私(住職)の技量では難しいのですが、仏教の智慧を仏教語(専門用語)を使わず、社会に発言(発信)していくことの工夫を考えていかなければいけないと感じています。
※中川個人の感想です。