感謝
仏教で、「感謝」の表現を「御陰さま(で)」と使われます。また、「報恩」も「頂いている恩に気づく事(知恩)ができたら、今度は、自分も誰かに恩を送ること(報恩)」も使われています。
サンドイッチマンの「病院ラジオ」を視聴しました。病院で1日臨時ラジオ番組を映像(TV)放送してます。病院内ですので、入院患者や通院患者さんが話す言葉を病院内にいる医療関係者や患者さん家族などが聞いている映像が流れます。必ず「感謝」の言葉がでます。病気を通して医療従事者や家族や自分を支えている方への感謝で溢れています。とても、苦しい時間を共有する中で生まれてくる感謝だと思います。
さて、私は日常生活の中で「感謝」をしているでしょうか。本当は、当たり前で無く、「有難い」ことであったとしても、これが当たり前であると感じたり、この日常が当然であれば「感謝」の心は起きないでしょう。
「感謝」を気づかせてもらえるのは何なんでしょう。
やはり、当たり前でなかったと気づく時なのかな。何が当たり前でなかったのか。
そもそもで言うならば、私の存在そのものでないでしょうか。
今、私が生きていることがどんなに当たり前でなかったか。その時の状況によって「感謝」したり「不機嫌」になったりするのでしょうが、「生きてきたこと」へは、「ありがとう」と言いたい心は残っているのでしょうか。
私(住職)自身も幼い時にもしかしたら命が終わっていたかもしれません。20歳頃も命が終わっていたかもしれない事故にもあっています。その当時は「ラッキー」の一言で済ましていましたが、何かのきっかけで、その状況を思い浮かべると今でも心臓がどきどきして苦しくなります。
「マインドフルネス」の中で、「感謝」を相手に伝えることの大切さを学びました。
既に、父(前住職)は、往生していましたが、母(前坊守)は一緒に生活をしていました。還暦近くの子ども(住職)が、母に「ありがとう」を伝えるのに恥ずかしさもありましたが、手紙にして渡しました。後日、母から「ありがとう」と言われた時はやっぱりうれしかったし、今も宝物の言葉です。