働かざる者は食うべからず

「働かざる者は食うべからず」

こころない言葉がSNSから直接当事者に投げかけられひどく落ち込むことがあります。
これまででも、誹謗・中傷されることはありましたが、ネット時代では、即座にとんでもないボリュームの誹謗・中傷で、立ち直ることも難しい状態になってしまうこともあります。

「働かざる者は食うべからず」この言葉について考える機会がありました。障がいの子どもさんを持つお母さんからの問いかけでした。

「働かざる者は食うべからず」の言葉で傷つき、自分自身は価値が無く、死まで考えてしまう心になった時、宗教者はどのような言葉をかけるでしょうか。考えさせられます。

オンラインの議論で、僧侶の多くの方の視点から「働かざる者は食うべからず」についてお聞かせいただく中で、「善悪」や「損得」「上下関係」などに考えが及ぶ貴重な時間でした。

議論中、私(住職)の中で最初に頭に浮かんだのは、自分の中にある「差別心」でした。
次に、道徳と宗教(仏教)の関係でした。

「働かざる者は食うべからず」は、労働に関する慣用句だそうです。
働こうとしない怠惰な人間は食べることを許されない。食べるためにはまじめに働かなければならないということ。
新約聖書の「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」という一節が「働かざる者食うべからず」という表現で広く知られることとなった。ここで書かれている「働こうとしない者」とは、「働けるのに働こうとしない者」であり、病気や障害、あるいは非自発的失業により「働きたくても働けない人」のことではないとされている
「テサロニケの信徒への手紙二#働かざる者食うべからず」も参照」((https://ja.wikipedia.org/wiki/働かざる者食うべからず 参照 2022年11月16日))

※他の説では、ソビエト共和国の共産主義思想の不労所得者に対する言葉ともあります。

私たちは、当然、「働こうとしない者」とは、「働けるのに働こうとしない者」であり、病気や障害、あるいは非自発的失業により「働きたくても働けない人」のことではない。
ことは理解しています。しかし、その部分を切り取ってしまい短絡的に使ってしまうことも現実にはあります。思いやる心がそこまで気づけない状態であったのかもわかりません。
そして、その言葉が一人歩きしていく中で、傷つく方がいることを忘れてしまっている自身の至らないことを知らしめていただいているように感じます。

この言葉が、自身の「差別心」として考えたのは、どうしてか。
頭で理解していることでも、現実に向き合った時、本当に体感していたか問われると考えてしまいます。
大学に入った頃、「同和問題」を知りました。その問題を何も知らずにいたこれまでとは違う視点を持つことができました。その時、悲しいけれど、自分の中の「差別心」は「同和問題」以外にもあることが明らかになってきました。知らなければ済むことでなく、知って体感していく中で、私自身の考え方が変わっていくことができることを経験できたことは、とても有難い時間です。

また、「働かざる者は食うべからず」は、労働に関する慣用句ですが道徳的な響きも感じられます。

道徳と宗教はどう違うか 人間は、“道徳さえきちっと守って生きてゆけば、信仰や宗教など必要ではない”と言う人が、かなりたくさんいる。これは間違っている。道徳とは人格を高めようとするところに生まれたものであり、宗教はほんとうの生きる道を教えるものである。ちょっと難しい表現になるが、道徳は、”人生の目的を果すための手段”であり、宗教はそれ自身 “人生の目的”なのである。
((http://www.jtvan.co.jp/howa/Hasegawa/houwa031.html 参照 2022年11月16日))

私が生きていく中で、道徳は必要ですが、道徳を通してだけでは意味が見いだせないものが存在して、私自身を迷わしてしまう考えに、「そうではないよ」と指摘する視点が、宗教(仏教)なんだろうと思っています。私の「ものさし」でなく、仏の「ものさし」を持つことによって、私の「ものさし」が間違っていることが明らかになっていくことは、人生を豊かに過ごすことにつながっているように感じています。

「働かざる者は食うべからず」は、僧侶にとっても考えさせられる言葉です。お釈迦さんのグループは、各地を修行して回っています。そのグループは経済的活動はしませんので、生活上のことは全て生活者(市民)の布施行に委ねられています。生活者から「働かざる者は食うべからず」と見られれば、その時終わっていたはずです。
日本仏教は、世襲が多いので生活者と同じ視点で考えてしまいます。世襲でない場合やお寺を出る場合(還俗)もおそらく生活者視点で考えているのではと想像します。

オンラインの議論の時から考えていることを、私が宗教者(僧侶)として言葉にすると、「全ての命は等しい。自分が生まれてきた時のことを思い起こしてもそうですが、家族や他者に育てられて今を生きています。病で伏している時や年老いて、働きたくても働けないことは、誰にでも常にあることで、その言葉を他者に向けて発する時は、いろんな状況へ想像力を働かせて発言しないと適切で無い思います」と言っても、その言葉で傷ついている人の心に届くでしょうか。

※中川個人の感想です。