お寺の今

あなたにとってのお寺の今
私(住職)の心のよりどころは、阿弥陀さまの「はたらき」により生かされていることをうれしく・感謝して生きていることです。
阿弥陀さまの「はたらき」は、いつでも・どこにいても私(住職)に「はたらき」かけていると感じることができるのですが、「場」として考えるとお寺がその中心だと思っています。

しかし、多くの生活者に今のお寺をそのように感じていただいているのかはわからないのが正直なところです。
家族の中で亡くなられた方があって連絡をいただく場がお寺であり、亡くなられた方の年忌法要をする場がお寺であっても良いのですが、それは、二次的なことで、本質は心のよりどころとしての場(お寺)でなければ、少しもったいないようにも感じます。
そのことをどのようにお伝えできるか、それぞれのお寺が工夫されているのだと思います。

お寺に気軽にお越しいただくように考えると、葬儀や年忌法要も誠実に行うことは当然ですが、葬儀や年忌法要以外でもお寺に足を運んでいただく工夫が必要です。
お寺の空間を使い、日本文化を伝える場としての空間は以前から整っています。少し前からは、ヨガや写経・写仏、境内の清掃奉仕など体験できる行事や、終活についての行事も多くのお寺で取り上げられています。

そして、お寺として最もお伝えしたい「心のよりどころ」のみ教えは、お寺の行事の布教(法話)の場で、妙華寺もそうですがどこのお寺でも創建されてから続いていることです。

布教(法話)の時間は、阿弥陀さまの「はたらき」のご法話を聴聞しながら、わかったようでわからんような気持ちで、ご自宅へ帰られることもあるでしょうし、自宅のお仏壇でお勤めをしながら、ご法話のことを思い出したり、また次の行事でご法話を聴聞していく、昔ながらのスタイルで、今の時代にはそぐわないのかもわかりません。今の時代の伝道は、もっとスマートに効率よくわかることが求められているのですが、何度も何度も聞法しながら生活の中ではじめて、阿弥陀さまの「はたらき」に出遇うようにも感じるのは、これまでの考え方かもわかりません。

これまでの考え方の私(住職)には、毎回・毎回、聴聞しても有難い気持ちにさせていただくご法話は、私の人生をより豊かな気持ちで生かされていると感じています。

自分の身体が元気でお寺にお越しいただくことができる間に、できれば、お聴聞の機会をつくっていただければと願っています。