「これからの供養のかたち」

「これからの供養のかたち」著者 井出悦郎 祥伝社新書

著者は、(一社)お寺の未来の代表理事で、私(住職)も、未来の住職塾を受講した時の講師の1人であり、お寺のポータルサイト「まいてら」やお寺のHPでもお世話になっています。
僧侶として「供養」を考えると、対象が広範囲で、考えも宗派によってさまざまであり、また、「供養」を執行する側からの視点で考えてしまいがちです。今回、僧侶としてではなく生活者として、考える機会になりました。

著者は自身の子どもさんを亡くされたことが、著書を書き始める機縁になったと述べられています。私は、古希が近づく年齢で、一緒に生活をしていた、祖父母・父母を亡くし、弔い、供養を続けている生活者の1人でもあります。そして、嫁いでいた妹が私より先に亡くなるとは思ってもみませんでした。妹は、最後まで、自分の病気のことは、妹家族以外に知らせませんでした。後ほど妹の家族から聞いた話ですが、当時、私の母(妹の母)が、高齢で、病後のこともあり、母に子ども(妹)の病気を知らせたくなかった(心配をかけない)気遣いからのようでした。誰もがそうだと思いますが、自分に近い関係者が亡くなれば、いろんな感情が湧き出て、いつものようにな平常心を保ち続けることは難しく、困惑する感情の中で、すぐさま、亡くなられた方の弔いについて考え、行動(事務手続・処理)をしなければならなりません。「死」について少し関わっている僧侶の私だってうろたえながら、物事を決めていたのだから、日常で「死」について考える機会が少ない生活者であれば、誰かにすがる(任せる)ことしか頭に浮かばないと思われます。
その時出合う関係者(葬儀社や宗教者)の印象によって、「弔い」や「供養」について、どのように感じたり、考えたりしていくかさまざまだと思います。これまでの時代でもそうでしたが、今の時代では、その時の印象が良くないことが情報が、瞬時に、報じられることが多いので、宗教者や葬祭関係者は、「供養」に関してこれまでの価値観でしか語れない供養のかたちでは、生活者の考える多様な「供養」についての考え方に寄り添うことは難しいとしか感じられません。
著書にも書いてありますが、「供養」の意味は多様で、一言で定義することが難しい言葉ですが、日本古来からの考え方から見ると、先祖供養として捉えるのがわかりやすいと思います。
ただ、現在は、これまで続いていた、家制度による先祖の考え方も、死の捉え方もこれまでとは大きく変容しているように思えるので、私(住職)は「私にとって大切な方のいのち」をどのように見ていくかを考える時間になりました。

著書の言葉を引用すれば、「あなたにとってご先祖はどのような存在で、今後もどのようにつながっていきたいですか? あなたは家族など親しい人をどのように送り、供養したいですか? あなたは死後にどのように送られ、供養されたいですか?そして、どのような先祖として記憶されていきたいですか?」
これらについて、生活者と僧侶が丁寧に一緒に考えていくことが、「これからの供養のかたち」になっていくと思います。

著者が、生活者と宗教者の視点をとても丁寧に掘り下げていらっしゃるのは、10年ほど前から寺院のサポートをされた中で培われた宗教者との信頼関係であったり、自身が生活者として宗教者に対して厳しくも、温かい視点からのたまもののように感じています。
生活者は勿論のこと、宗教者も著書から学ぶべきことはたくさんあると思います。