和讃

和讃をご紹介いたします。和讃について多くの参考書がありますが、『注解 国宝 三帖和讃』常磐井鸞猶著と『正像末法和讃講話』川瀬和敬著より紹介します。

国宝本 正像末法和讃 第37首

眞實信心の称名は 如来廻向の法なれば
不廻向と名づけてぞ 自力の称念嫌はるる

真実の信心に基づく称名念佛は、阿弥陀佛が我々にお与え下さった教法であるから、我々の方からは何一つ佛にさし上げるものはないので、これを「さし向けない法」と名づけ、称名の功徳を佛に捧げようとする自力の念佛を、この趣旨にはずれたものとして、佛はお嫌いになるのである。

不廻向は、信心も称名も、すべて如来から衆生に廻向されるものであって、凡夫の我々が佛にさし向けるものでない。凡夫の側からは不廻向であるということ。凡夫の側から廻向するのが自力の称念。

以上 【注解 国宝 三帖和讃 常磐井鸞猶著より】

 

勤行本として依用しています文明本
正像末法和讃 第38首

眞實信心の称名は 弥陀廻向の法なれば
不廻向と名づけてぞ 自力の称念嫌はるる

前の和讃(37首)を、もう一つ深めてお詠いになった和讃です。「真実信心の称名」、「如来廻向の信心とともにある称名」と。如来の心が私の上にはたらくのが信心、信ずる心も如来によっていただいたものです。信心をともなわない念仏は念仏になりません。信心は念仏にかえります。「称名」といったら、南无阿弥陀仏そのものになることです。「如来のお心が私のなかにふき出したお念仏は、これは阿弥陀から与えられた法であるから、不廻向となづけます」と。「不廻向」というのはへんな言葉ですけれど法然上人の言葉です。だからこの「不廻向」という言葉をつかいながら、法然上人への謝念を詠っておられるわけです。
「不廻向」というのは「廻向を要とせず」、私が如来に廻向するものは何もなしということです。なぜかといったら「阿弥陀の廻向の法だから、私の廻向にあらず」と。「不廻向となづけてぞ 自力の称念きらはるる」、信心からでてきた念仏でなく、「私からでてきた念仏は如来これをきらう」ということです。
この「廻向」というのが、真宗では非常に重要になります。だいたい「廻向」という字は、こちらから向こうへというかたちででてきた字なのです。ところが真宗では、如来のお仕事が「廻向」、私の仕事は「廻心」なのです。「廻心」というのは私の心がひっくり返る、自分の心では如何ともし難いことを「廻心」という。心をひるがえす。如来の方から自分の全体を私に与えて下さることを「廻向」という。くるっと廻して向きをかえてこられる。自分の全体を南无阿弥陀仏として、われをたのめよという。「私において廻向ということはありません」と、これをはっきりとお詠いになったご和讃であります。
以上【正像末法和讃講話 川瀬和敬著より】