茶道の行方

茶道の行方
茶の木は、中国から輸入されたものです。いつも飲料している緑茶も最初は薬のような扱いであったと聞いたことがあります。お茶の葉を蒸しあげて時間をかけて碾茶にする。そして、生活の中でお茶一服を美味しく喫する為に、お茶を点てる作法や、もてなしの方法が考えられていく。茶をいただく為の茶室も造られて、日本の総合文化と呼ばれる「茶道」が造り上げられていった。日本に仏教が入ってきた時より遅いので、日本仏教のエッセンスも含まれている。
しかし、現代の生活者の視点から見ると「茶道」は、特別なことだ。今の時代に炭を使ってお湯を沸かすことなど考えられない。炭の火力を整える「灰」を知っている人がいるだろうか。「床の間」を知らない世代もいるし、畳に座ることも珍しい。まして、親から子どもへ伝えられることではなくなっている。これまでの当たり前が通じない時代だ。

床の間の掛軸をどのように感じるか。炭をついで、火を熾すことや、ほのかな香木や練香の香りを聞くこと、鉄釜のお湯がとてもまろやかに感じること、お茶一服を美味しく喫することに意味があるのだろうか。

「茶道」は、これまでの生活の中で大切にされてきたことだが、何にとってかわられたのだろうか。わからないことだらけだけど、求める者は、実践(稽古)を続けていくしかないのかも知れない。

同じかどうかもわかりませんが、「仏教」の教えもこれまでの生活では当たり前であったことが、次世代には伝えられていない時代なのでしょう。
仏教史観の「末法」の時代であることはずいぶん前からですが、今を生きる私には、これまでの「末法」であるが故の伝え方とも違う、伝え方も模索しなければいけないとも感じています。
※中川個人の感想です。