隣寺との境界

隣寺との境界
江戸時代、久居の町ができる時に寺領をいただいて350年ほど、隣のお寺とは、境内墓地の部分で分かれています。樹木での境界で、これまでも植え替えをしながら今に至るのだと思っています。そろそろこの境界となる樹木も朽ちる部分もでてきましたし、蜂の巣ができたり今の時代にそぐわないように感じている方は、隣寺の檀家さんや拙寺の檀家さんにもいらっしゃるようです。先日、隣寺の寺族さんとお話しする機会があり、新しい境界を考えなくてはいけないと考えていらっしゃるようです。
そうすると、妙華寺でも考えていかなければなりません。
考えられることは、まず境界の測量をし直して、今ある樹木の撤去と新しい境界物を作ることになります。およそ180mほどの境界のことでありますが、数年かけて行う事業となると思われます。

前坊守の一周忌

前坊守(母)の一周忌
お寺の報恩講の日ではありますが、午前中にお勤めをしました。
コロナ下ですが、遠方からもご焼香をいただいたり、小さな子ども(母から見るとひ孫)さんもお越しいただき、また、お同行様からも弔意をいただきありがとうございます。
本当に時が経つのは早いもので、あわただしく過ぎるものです。今一度、自分がどのように生きているか振りかえる時間でした。

【お寺の寺報より】
前坊守のこと
前坊守(母)は、令和2年12月5日に往生しました。89歳でした。丁度、お寺の報恩講の前日で、報恩講に遇いにこられたように感じています。

母は、前々住職の4人姉妹の長女として昭和6年に生まれました。10代半ばで終戦を迎え日本中が困難な生活をしている中の苦労も経験し、その苦労話も随分前には聞かされたことを思い出します。23歳でお寺の養子になる私の父を迎え、25歳で私が生まれました。前々住職の時代もそうですが、前住職と共に坊守としてお寺の護持をしっかり守っていただきました。

私が住職を拝命してからも、これまでどおり私の生活態度に対して厳しく、母が母の両親や祖父母から教えられた、今では時代遅れと思われるこれまでのお寺のしきたりや決まり事を私に教えてくれていたように思います。それに反発したり感謝する私がいます。厳しい母でありましたが、私が考えて行うことには、最後は順ってくれていました。

昭和・平成の妙華寺を長年寺族・坊守として支えていただいたことに感謝しています。
また、多くの皆様には親しく、お育ていただきましたこと、誠にありがとうございました。

お寺の宝物

お寺の宝物 親鸞聖人絵伝
お寺の報恩講の時に、向かって左側に掲げて、親鸞聖人のご生涯と教えをわかりやすくお伝えしています。以前は、絵解きもあったようです。

親鸞聖人絵伝 4幅 妙華寺蔵
「親鸞伝絵」から図画の部分を抜き出し掛軸にしたものが「絵伝」で、場面は下から上へ順序よく配置され、各場面は「やすり霞」といわれる雲形で仕切っています。一般に4幅で一組です。

妙華寺の「絵伝」は、高田派第18世圓遵上人(1786年~1811年)の署名と花押が第4幅上段にあり、第4幅下段に絵師(御絵所)は藤原佐助とありますので、高田派の親鸞聖人絵伝と見られます。

親鸞聖人(1173-1263)真宗の開祖
藤原一族の日野有範の長男。「伝絵」によれば9歳の時に慈鎮和尚について出家、範宴(はんえん)と名乗る。約20年間比叡山で修学、常行三昧堂にて堂僧をつとめていたとみられる。29歳の時に比叡山を下りて、六角堂に参籠し、聖徳太子の夢告により法然を訪ね阿弥陀仏の本願に帰し、門弟になる。1205年『選択集』を附属され書写し、法然聖人の真影を図画。夢告により綽空から善信にあらためる。法然聖人のもとで学ぶ間に惠信尼と結婚したとみられる。承元の法難(1207)によって法然聖人らと処罰され流罪になり越後の国府に赴く。自らを非僧非俗とし愚禿(ぐとく)と称した。赦免されると妻子と関東へ移住し、茨城県の笠間市稲田を中心に伝道生活を送る。『教行証文類』を著し推敲を重ねる。62歳頃京都へ帰り、御消息によって関東の門弟を教化、交流する。『三帖和讃』をはじめ多くの著述を残した。
関東で法義理解の混乱が生じ、息男慈信房善鸞を遣わしたがかえって異義が生じ、建長8年(1256)に善鸞を義絶した。弘長2年11月28日(新暦で1月16日)弟尋有の坊舎で90年の生涯を終えた。

【妙華寺の親鸞聖人像】

11月のおてらおやつクラブ

11月のおてらおやつクラブ
11月は、県内の2つの支援団体様に「お供え」を「おすそ分け」させていただくことができました。
おてらおやつクラブ事務局では、年末にかけて多くの一人親家族様が困窮を訴えていることで、取り組みを強化されています。妙華寺もささやかですが賛同する予定です。

また、年2度回収の古本勧進での古本も募集しています。
今回は正月末までに集まった古本を寄付させていただきます。
不要になりました古本がありましたらいつでもお寺にお持ち込みください。
対象の本は、裏表紙にバーコードのあります文庫本・新書本・単行本です。
申し訳ございませんが、週刊誌・雑誌・百科事典・全集は対象外です。
本以外、書き損じのハガキ・不要なCDも受け付けています。

お寺の変化13

お寺の変化13「親なきあと」問題
「親なきあと」と言う言葉をご存知でしょうか。
私(住職)は、今年に入ってあるオンラインの講座で「親なきあと」相談室 関西ネットワークの代表であります藤井奈緒さんのお話を聞き、初めて知りました。
障がいの子どもさんや引きこもりの子どもさんがいらっしゃるご家族で、親御さんが子どもさんを見守ることができなくなってから、亡くなってからの子どもさんのその後の人生を心配されている言葉です。一人の人生のことを考えるのでとても大きな問題が数多くあります。
そして、全国に「親なきあと」相談室を立ち上げ活動されている団体もたくさんありますが、多くは士業の方が活動されているようです。
私たちの住む津市で「親なきあと」の活動は、私(住職)が知らないだけかもわかりませんが、限られているように感じます。

また、「親なきあと」問題について、お寺としてできることは、何か。障がい者や引きこもり問題に関わる専門職ではありませんので、ただ聴く(傾聴)することだけだと思います。しかし、聴くことから、抱えられている問題を専門家におつなぎできることもあるかもわかりません。
多くの問題を抱えられているご家族に伴走型支援として、「親なきあと」相談室関西ネットワークで活動されている藤井奈緒さんのご指導や、既に「親なきあと」問題に取り組まれている全国の寺院の皆さんのご助言と地域でこの問題に関わった活動をされている団体様にもお力ぞえをいただき、妙華寺も取り組むことができればと考えています。
これまで、妙華寺では、終活について学んだり相談できる「場」を提供しています。「親なきあと」のこともお寺の「場」を開く1つとして取り組もうと考え、一般財団法人「お寺と教会の親なきあと相談室」に賛同し参加することにします。

年忌法要のお勤め

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年忌法要のお勤め
真宗の年忌法要は、亡くなられた方との縁を通して、私が仏法に出遇い、阿弥陀仏の恩徳に報謝するものですから、亡くなられた方へのお勤めでないことに違和感を感じるかもわかりません。

妙華寺の年忌法要のお勤めは、お経(浄土三部経から)・文類偈・和讃(五首か三重念仏一首)・御書拝読です。
浄土の教えのお経と親鸞聖人が著した中から漢文の偈文、同じく和語で讃じた文、歴代ご法主の手紙形式の法語です。そして、亡くなられた方を通して阿弥陀如来のはたらきが、私を必ず救うと誓ってくださり、生きる喜びを知らしめてくださることに対して仏恩を讃歎しています。
限られた時間ですので、亡くなられた方と今の私の関係を新たに結んでいただく時間でもあると考えています。大切な方が亡くなられた時点では気がつかなかったことが時間と共に気づかせていただくことがあったりします。

私(住職)も、前住職(父)が亡くなった後、言葉を交わすことがなくなったのですが、お寺のことで悩んだりする時、前住職ならどう考えるか・前々住職であればどう捉えるかなど現実的ではありませんが、心の中で対面しています。
そして、そのことが大きなはたらきの中のことであると感じています。

相談

相談
あいまいな死
大切な方の死を受け入れることが難しい状況があります。
昨年からの新型コロナウィルス感染症でお亡くなりになられた方を遺族や関係者の立場で想像すると、死に際にも火葬にも立ち会えないこともあり「あいまいな死」を受け入れていくにはサポートが必要だと感じます。
戦争や災害・事件・事故などで、遺骨のない死も「あいまいな死」と考えられます。

ある方からお話(相談)がありました。実家の弟が病に倒れ、病院で検体を希望され、家族からその方(姉)や親戚へ、「本人の希望で献体しましたので、葬儀も行いません」と連絡があったようです。献体という尊い行為で、病院や研究所で丁寧なお別れをされたと思いますが、話(相談)された方(姉)は、弟の見舞いもいけず、葬儀もなく、どうしたらよいでしょうかとお困りの様子でした。このケースも「あいまいな死」と考えることができます。

お寺のお同行様の中でも献体を希望された方はいらっしゃいます。尊いお申し出で敬意を称しています。そのような場合、いろいろなケースがあります。亡くなられて葬儀をして、献体をされる場合。亡くなられた報告をお寺にされる場合。葬儀や納骨式ではないのですがお別れの式をされる場合。亡くなられてから年忌法要をされる場合などあります。

相談された方には、亡くなれた弟さんが献体という尊いお申し出をされたことは立派なことで、誇らしいことでないでしょうか。遺族や親戚で葬儀がなかったとしても亡くなられた日はわかっていますので、お仏壇でお勤めや手を合わせてはいかがですか。と話しました。
私(住職)は、大切な方の「あいまいな死」で遺族や関係者が、大いなる悲嘆の状況であることにどのような寄り添いができるのか、それぞれご事情もちがいますので試行錯誤しています。

法話の配信

昨年からYouTubeの「妙華寺TV」で動画配信をしています。
新型コロナウィルス感染症の感染防止対策を講じながら、お寺の行事を開催していますが、ご法話をお聴きいただく機会が少なくならないように、衆徒が編集しています。
遅くなりましたが、昨年の報恩講のご法話の動画が視聴できます。皆様のいらっしゃる場所でインターネット環境が整っていましたら、ご法話をお味わいください。

お寺の宝物

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お寺の宝物 本尊 阿弥陀如来立像
妙華寺のご本尊
妙華寺を建立するにあたり、高田本山より慈覚大師真作とされる阿弥陀如来立像を本尊として、三具足を添えられ拝領しました。

本尊
本尊には、「木像」・「絵像」・「名号(みょうごう)」があり、いずれかを安置いたします。木像の本尊は、阿弥陀如来の立像で、光背(こうはい)は傘後光(かさごこう)を本来の形としておりますが、舟形後光のものもあります【真宗高田派の平素のお給仕より】

真宗のご本尊
ご和讃に「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる」とあります。阿弥陀仏のご本願は、衆生のはかりある(有量の)境涯の苦悩を、摂取して捨てずのお心を成就するために、はかりなき(無量)仏になり給うた。これが阿(無)弥陀(量寿)の名のりであります。この仏が、衆生のために名乗り立ち上がる。すなわち南无(帰命)阿弥陀(無量寿)の仏となる。すなわち南无阿弥陀仏なのであります。【中略】では浄土真宗のご本尊はどうなっているでしょうか。座像でなく、立像の来迎仏でもなく、お真向(まむき)さまと呼びならわされています。これは、52段を衆生の場まで降り切って、真向いに至り着いて離れぬ大悲心を表しています。ご開山聖人が、こうして至り来て下さっている「大悲無倦常照我」の仏を、仏というより「如来さま」といただかれていたことは、ご和讃のよろこびの高潮した折りのお言葉に、「如来大悲」とか「如来作願」とか、「仏」より「如来」の方が多く唄われているのを見てもうなずかれます。さて衆生の所まで常に昼夜を分かたず、来切って下さるので、「来迎まつことなし」の不来迎、不廻向で、「常来迎」です。如来よりの「御廻向」が、み足を揃え1つの蓮台に乗っておられるみ姿となります。この蓮華に割り蓮華といって前から見ると2つに見え、それがくっついて1つになっているのがあります。お寺の古い仏像でよく見かけますが、これは来り来る瞬間を表したものかも知れません。
古い仏像は、光背が舟型の雲が多いですが、こうした阿弥陀像をいわゆる「傘後光」に直したのがあり、そのみ光は数十本の荘厳でした。しかし阿弥陀如来の誓願は、所依の経典『大無量寿経』から窺いますと、摂取不捨たらしめるために48願が説かれてあります。従ってこの願を表すために48本のみ光を後光とするのが、そのみ姿のありようになってまいりました。御画(絵)像につきまして、この48本のみ光が、金色の線で表され、この影の部分が紺地で相互しています。高田派や、本願寺派のはそのみ光が画面の中央を通り、これが逆になっているのもあります。こうした仏像はご本尊とする時、必ず「お裏書」があります。これは最近まで、ご法主が書かれたものでありましたが、制度が変わり、今は本山「専修寺」になっています。ご本山進納所でお受けするお真向さまには、これが裏に貼ってあります。お寺の木像には「お墨付き」が下付され保管されています。書かれてあるのは、「方便法身尊像」で、基本としては本願の「名号」がご本尊ですが、最初に申した通り、「法」の法身から、「方」まさしく、「便」すなわち、形を以て象徴した時、あるべくして拝み出されたのが、この大悲の願(48)を背負い、生死の苦海に出でまして「衆生を呼ぼうて乗せたまふ」お慈悲が、立像として寄り添い、常に喚びかけ給う、これがお真向さまであります。そうであったかと願心を仰ぐのみであります。
【「一期一会」真置俊徳著より】

【仏像の底に流れるもの】
お釈迦様のご在世中には、そのそのお姿自体が仏像であり、お説きになった法が帰依礼拝の基本でありました。

 

教学院研究発表大会

教学院研究発表大会
毎年10月の終わりにある教学院研究発表会で今年は6名の発表があり、うち2名の研究員が妙華寺の所蔵物こついて取り上げていただきました。
・「妙華寺所蔵宗学関係資料」金信 昌樹 研究員
高田派寺院の所蔵書物の調査を行っていただいた報告でした。素人の私(住職)には、お寺に伝わっている書物がどのようなものであるか分かっていませんので、分類してまとめてくださいました。


・「『選択集』の絵画化について 妙華寺蔵「選択集絵伝」を縁として」清水谷 正尊 研究員
親鸞聖人の師匠の法然聖人の著作「選択本願念仏集」の内容が、絵画で著されている「掛け軸」が、妙華寺に残っていました。2年ほど前から調査を依頼していましたことを発表されました。法然聖人在世の時、『選択本願念仏集』を知る人はごく限られていましたし、没後、開版されましたが、他宗から迫害をうけた書物が、江戸時代に入ると、「和訳」されたり、絵画で内容が描かれたりし、多くの民衆に「選択本願念仏集」の教えがより分かりやすく伝えることができたことは、求められる教えであったことを再確認しました。その1つの挿絵が、妙華寺の3幅の掛け軸として教化に使われていたこと思います。
また、掛け軸は、彩色されていますので、迫力も感じられます。


※妙華寺所蔵の「選択本願念仏集」の掛け軸は、表具を改め来年(令和4年)五月22日の法縁院妙華寺 親鸞聖人ご誕生850年・立教開宗800年奉讃法会の時、西余間に掲示し、調査報告から見えてくる「法然聖人と親鸞聖人」のみ教えをもう一度皆様と一緒に味わいたいと考えています。