5月の日曜学校

御書(ごしょ)
高田派では歴代法主が発せられる書簡体の法語を「御書」と称します。東西本願寺での「御文(おふみ)」「御文書(ごぶんしよ)」に相当します。高田派で御書を初めて積極的に取り入れられたのは、10世真慧上人ですが、同時代の本願寺8世蓮如上人が「御文」による伝道に成果を挙げられておられたことに倣われたものでしょう。
親鸞聖人が関東の門弟と、浄土のみ教えについてご消息を通したやりとりしていたことがあってのことと思います。
ただし「御書」という呼称は真慧上人によるものではなく、定着したのは、14世堯秀上人が、明暦3年(1657)に『御書4巻』を初めて開版されて以来のことと考えられます。
真慧上人は多くの御書を残されましたが、中でも上人自身が選集された、「中興上人御書」1巻は門末に最も珍重され、上人の由緒寺院である、浄光寺、慈光寺、明覚寺、厚源寺に伝えられています。
特徴として、本願にまかせ、大悲を仰いで称名せよとの趣旨を明快に説いておられ、同時に「本寺崇敬(ほんじそうきょう)」を強くすすめられています。
 高田本山第10世 真慧上人永享6年(1434)~永正9年(1512)は、26歳の頃、関東から加賀、越前、近江を巡化され、長禄3年(1459)まで、滋賀県坂本の妙林院に逗留し、寛政元年(1460)に伊勢国(一身田)に入られたようである。寛政6年(1465)の比叡山僧徒の大谷本願寺破却事件の時に、専修寺と本願寺の違いを比叡山に陳情したと伝えられている。その時に今の如来堂の本尊である阿弥陀如来像を贈られ高田では、「証拠の如来」と呼んでいます。
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青楓

総代会

総代会
4月29日(祝・金)春千部会の後に改修しました妙華寺会館で総代会を開催しました。2月8日から4月7日まで庫裡と妙華寺会館を改修して改修が終わりましたので総代様に披露しました。
改修は、耐震補強と板の間にすることで、座ることから腰掛けることで身体への負担を軽減することが主な目的でした。
これまでどおり、妙華寺会館の利用については無料で、葬儀・法要・会議・待合にご利用いただけます。
板の間にしてイス式での利用が中心となります。(座ることの負担を減らす)
空調設備の導入にて、季節を問わず利用しやすくなります。
 また、今後宗教法人の制度の見直しなどについての相談は、(一社)お寺の未来様の「お寺の安心相談顧問サービス」を利用することにすることにご理解をいただきました。
また、お寺のコミュニティの担い手のお世話方様のあり方につきまして、地域のコミュニティの問題と共に今後どのような形になるのかご意見をいただきました。
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春千部会

春千部会は、前日までの雨があがり晴れ間になりましたが少し風が強く肌寒い日になりました。大型連休の初日でありますが多くの皆様にお集まりいただきありがとうございました。出勤していだくご法中様の衣体は、黒衣、五条です。若い頃にどうしてか前住職に尋ねましたら、「真宗では報恩講が一番大切な行事で、色衣、五条で出勤をお願いしているので、他の行事は黒衣、五条で出勤をお願いしている」と教えられました。布教使様は、義明寺の高藤英光師です。熊本地震の災害からも、親鸞聖人のみ教えを気づかさせていただくことがあることをお話しされました。

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布教大会

京都若手僧侶法話勉強会様の主催の布教大会が行われました。
およそ50名の方々がご聴聞に駆けつけてくださいました。
最初にお勤めがあり、出勤僧侶は、西本願寺の方が多く普段唱和されない「文類偈」の節を心配されていましたが、堂内の大勢の大きな声で一緒に合わせて唱和されていました。
ご法話される若手の4名は、少し緊張の趣で始まりましたが、落ち着いた口調で自分の経験を交え、阿弥陀様のはたらきを讃嘆され、最後に会の代表の中西正導師(本願寺派布教使)がまとめられました。その後、茶話会では、お茶とお菓子をいただきながら若い僧侶が、ご聴聞された方お一人、お一人のお話しをお聞きしたり、お尋ねに丁寧にお答えしていました。平素のお勤めの後に私(住職)とお同行の皆様との話より活発な会話で私に課題を与えていただいた感じです。
ご聴聞をいただきました皆様には、お同行様をはじめ、地域の方々、河芸の満願寺様の坊守様と婦人会の皆様や、近隣のご住職様にもお越しいただき大変感謝申し上げます。
また、京都若手僧侶法話勉強会様には、遠方より三重県津市久居の妙華寺までお越し頂き、布教大会として4名のご法話をご聴聞できることを楽しみにしていました。
現代は、仏教のこと、親鸞聖人のことなど、書籍やメディアで知ることもできますが、ご法話を聴聞することは、布教使様とご聴聞する私たちが一体となり、仏徳讃嘆を作り上げているように感じます。布教使を目指している若い僧侶と共にお育ていただいた時間となりました。

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今年のメリシャカ

7日は、昨年と同じように今年も雨の中の開催です。毎年お花をお供えいたただく方々に本堂の中で甘茶を召し上がっていただきました。
8日は、晴れ間も出て隣寺の誕生仏へも甘茶をかけさせていただきました。同じ誕生仏でも顔立ちや姿が違うのを感じるの楽しみの一つです。

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4月の日曜学校

栃木県の本寺(専修寺)について
親鸞聖人が下野国芳賀郡大内荘高田へ来られたのは、聖人53歳の時と言われています。ここで虚空菩薩の化身明星天子のお導きを受け、またこの地方の豪族や庶民の懇望を受けここ一宇を建立され、信濃国長野の善光寺から一光三尊佛をお迎えして本尊とされました。聖人のお留守は、当地豪族出身の真佛上人が預かり、専修念仏の根本道場となり、多くの門弟が生まれ、聖人帰洛後、「高田門徒」と呼ばれ、聖人の遺弟中最大の教団となりました。真佛上人の後、顕智上人が継承し、聖人の入滅にも立ち会われ、御遺骨を抱いて高田に帰り、御廟を建てられました。その後「専修念仏の旗手」との意味合いから寺号を「専修寺(せんじゅじ)」と称することになりました。
親鸞聖人の御廟は、高さ145cmほどの石塔で、「笠塔婆(かさとうば)」と言われる形式です。それは高田本の「親鸞聖人伝絵」に描かれた聖人の墓碑と同一形式であることが意義深い。聖人の御歯骨が納められています。

15世紀半ば、第10世真慧上人は、伊勢の一身田に別院の無量寿院を建立し、東海北陸地方へ教線を拡大せられた。しかし、戦国時代、高田の専修寺は兵火のため炎上し、廃墟になったので、教団の本山としての機能を一身田に移し、無量寿院も専修寺と呼ばれるようになりました。
高田の専修寺は、江戸時代になりようやく復興し、高田教団では、本寺(ほんじ)と呼び尊んでいます。国からは、「親鸞聖人の宗教遺跡」として唯一の史跡指定を受けています。

  現在の本寺には、涅槃堂に木造の釈迦涅槃像(元禄15年(1702)制作)が安置されているのが目を引きました。
また、三谷の草庵も2年前に改修されていました。
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本寺御復座法会

一光三尊佛お送り本寺御復座法会参拝の旅
平成28年3月31日(木)~4月2日(土)に参加させていただきました。
本寺には何度か行ったことがありますが、一光三尊仏の御復座法会に参詣するのは初めてでした。約150名の参加で、今回は天気にも恵まれ、本寺の桜も満開の中での法会でした。
10年ぶりの本寺ですが、本当に心が落ち着くというか一身田の本山とは違う空気に覆われているような感じです。私には、親鸞聖人の御廟が感じさせているように思います。
聖人の御歯骨が納められている御廟の間近で手を合わすことができるのは本寺ならではの魅力です。4月1日の午後の法会で、前御法主様の御親修・御親教にあうこともうれしい時間でした。法会の期間中、涅槃堂の前では、誕生仏に甘茶をかける花祭りもあり、宝物の展観もあり有意義な1日でした。次に三尊様にお遇いできるのは、14年後の平成42年(2030年)。できることなら、参詣できればと思い帰路につきました。

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春彼岸会をお勤めいたしました

昨日は妙華寺の春彼岸会でした。強風の中、ご参詣、ご聴聞いただきありがとうございました。上田隆順師の「生活の中の念仏 念仏の中の生活」のお話しや「此岸から彼岸へ渡ることが私の気づきの中にあること」のご法話うなづくことばかりでありました。
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春の行事として、4月7日8日は、メリシャカ(花祭り)です。本堂前に花御堂を安置します。誕生佛に甘茶をおかけください。また、お家にありますお花を一輪お持ち頂きますと花御堂に飾らせていただきます。4月9日は、布教大会が午後1時30分から3時45分までございます。若い布教使さんをお育ていただくのは、ご聴聞していだだく皆様です。一人でも多くのお越しを願っています。

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3月の日曜学校

今回は佛涅槃図の見所の一部をご紹介いたします。
①お釈迦様の右手の表現
(1)両手を体につけて仰臥か右脇臥
(2)右手を顔前におき右脇臥
(3)右手枕で右脇臥
古代インドで(1)の両手体側・仰臥は「死者の臥法」(3)の右手枕・右脇臥は「獅子の臥法」と呼ばれ大般涅槃を成就した聖者の表現とされている。
 日本で唯一 珍しい涅槃図 お釈迦様の右手の表現で上記の3点に納まらない作品がある。「大和法隆寺現身往生宝塔北正面涅槃像」と刻入されている木版涅槃図。
右脇を下に横臥されたお釈迦様は右手をまっすぐ前下方に差し出され、宝床下で一人物がその手に触れている。
②お釈迦様の枕
(1)手枕のみ
(2)枕をして手枕 『長阿含経』に「大衣を畳んで・・・」とありこれが枕に変わって表現 ガンダーラ出土の石彫の涅槃図などにもある。鈴鹿市の龍光寺の涅槃図もこの構図
(3)枕が蓮華台 右手が枕でない構図が多い。東福寺本、平安時代後期の金剛峯寺本の涅槃図の構図
例外として鎌倉時代後期の愛知・妙興寺本、京都大徳寺本は、右手はお顔の前にあり、枕は蓮華台でなく袈裟を畳んだものを枕とされている。
③宝床の向き
(1)宝床の右側を描く
(2)宝床の左側を描く
平安時代から見られる宝床の右側面を描く形式が古様な表現で鎌倉時代に入り、お釈迦様が右手枕をし宝床の左側面が描かれるものが現れこの形式が定着していく。
※涅槃図の見所は『涅槃図物語』竹林史博著 大法輪閣より抜粋しました。
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※真宗高田派京都別院佛涅槃図(複製)

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★高田本山では、3月15日から21日まで如来堂にて「佛涅槃図」をお掛けしています。

 

 

2月の日曜学校

2月の日曜学校
今月は、妙華寺の本堂から飛行した人の顛末をお話しました。
『藤影記』(梅原三千著)にある「飛行機の失敗」と言うお話しです。
国友貢(みつぐ)は、鳶鼻の異相を有し、天狗の如く空を飛んでみたいと考え、鴨を一羽手に入れて両翼と尾を秤(はか)り、体の重さも精密に秤量し、その割合を算出して、その比準で自分の体重に適当する大きな羽根を造った。
早速、法苑院へそれを持ち込み、実験するということで、本堂の屋根から、羽ばたきたくましく飛んだが失敗して 蓮池の真ん中に墜ちた。国友はこの時挫折したのかその後空を飛ぶことを計った噂はなかった。
今「久居城下町案内人の会」でこの話を紙芝居の一つとして紹介されています。
ここからは住職の想像です。
①本堂の屋根から飛ぼうとして時期は?
江戸時代のいつであるか定かでないのですが、妙華寺の本堂は、文政4年(1821)3月の久居の大火にて焼失しています。再建された今の本堂は、安政4年(1857)12月に棟上げされました。推測できることは、棟上げされて本堂が再建する過程で、屋根に瓦を載せる前の状態の時ではないかと考えています。
②蓮池はどこに?
妙華寺にはかつてお寺の境内の東南に弁天池と言われる池ありました。現在は、樹木の元でのお墓と駐車場になっています。また本堂の西側に蓮池と言われる池が今もあります。現在は、以前より池の範囲が小さくなり蓮も咲いていません。本堂の屋根の形状が寄棟ですので飛ぶ方向としてはこちらが有力と考えています。
人類で最初にライト兄弟が空を飛ぶことに成功しましたが、世界中で空を飛ぶことを夢見た人はたくさんいたのでしょうね。

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