「つらつら世間の転変を観ずれば、哀傷の涙 袖にあまり」と仰せられた上人は、御内室にも早く先立たれ、両堂の焼失、堯朝上人のご逝去、「かなしみ肝に銘ず」とは実感のお言葉と拝する。今日まで門末は、この御書を拝誦して、無常を感じ、大悲の恩徳を喜ばせて頂いているが、65歳の後老境をもって、法嗣の育成、山内の復興、年譜のごとく、言語を絶するご苦労をされた。御影堂再建という、現代ではもうできない文化財をお残しくだされ、「他力の御廻向によりて、往生決定する」幸せを感謝せよと、改悔文に仰せられて、門末を教導せられたことを忘れてはならない。
堯朝上人のご逝去によって、翌々年、堯秀上人は花山院から8歳の上人を迎え、とくに教育に留意せられたようである。『興御書抄』(恵雲著)に「寛文第3暦5月21日 御子達御披露恵雲」とあるのもその一例と拝察する。東都に遊学した普門も帰り『教行信証師資発覆抄』250巻の大著をなし、恵雲は『教行信証抄』を刊行した。東西にも本典講録の刊本なき時代であるだけに、諸学匠はたいへん参考したという。安居の制を定められ、学事は大いに盛んとなった。歴代御廟の建設、山門建立、野州高田山本堂再建などされ、宝永7年(1710)職を円猶上人に譲られた。
【高田本山の法義と歴史より】
他力の御回向によりて、雑行雑修疑心自力をすてて、阿弥陀如来後生御たすけ候えと、たのみたてまつる最初の一念に、我らが往生は決定と領解いたし候。このうえには命終わるまでの念仏は御恩報謝とこころえ申し候。かように聴聞申しわけ候ことは、御開山聖人、次第御相承、今日御出世の善知識の御恩と、ありがたく存じ候。今よりのち、善知識より定め示さるおもむき、そむき申さぬように、たしなみ申すべく候。御恩ありがたや。 南無阿弥陀仏
寺勤めでは、「御書」を拝読しています。