ひとくち法話

本願(ほんがん)
永年の目標が達成(たっせい)したとき「ついに私の本願(ほんがん)が成就(じょうじゅ)しました」と使うことがあります。この本願という言葉は、仏教からきています。
真宗のご本尊(ほんぞん)は、阿弥陀仏(あみだぶつ)ですから、いま、いうところの本願は、阿弥陀仏が誓われた根本の願いのことをいいます。本願は、十方(じっぽう)の衆生(しゅじょう)をめあてに誓われました。
1人も漏らさずに仏の国に救うというおこころです。そしてこのお心が南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)というお名号となって私たちに届けられました。
また、この阿弥陀仏の本願は、摂取不捨(せっしゅふしゃ)だからこの世で仏縁のなかった者に、次の世までも見放すことなくお念仏を届けますという現世来世(げんぜらいせ)にわたる大変なお誓いであります。
親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、20年間も比叡山で修業して、仏になろうと努力、精進されたのに、結果は「私は、悟(さと)りをひらくために修行をしてきたが、修行すればするほど、私自身が罪悪生死(ざいあくしょうじ)の凡夫であり、無始よりこのかた常に沈没し、常に流転(るてん)して迷いの世界から抜け出ることができない私であることを知らされました」と告白されたのでした。
そして師、法然上人(ほうねんしょうにん)から、かかる浅ましき衆生を浄土に往生させるために阿弥陀仏の本願が成就されてあったことを知らされたのでありました。
だから、この真宗のご本尊である阿弥陀仏のご本願は、私やあなたをめあての本願であり、私やあなたが仏の国に生まれる唯一の大道です。
弥陀(みだ)の本願(ほんがん)信ずべし 本願信ずる人はみな  摂取不捨(せっしゅふしゃ)の利益(りやく)にて 無上覚(むじょうがく)をばさとるなり  『正像末法和讃』
※ 「ひとくち法話」真宗高田派本山より

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ひとくち法話

―真宗の教え―
仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう)
親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、お釈迦(しゃか)さまが説かれたたくさんのお経の中から、次の3つのお経を「浄土の三部経」といって大切にされました。
◎仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう)
◎仏説観無量寿経(ぶっせつかんむりょうじゅきょう)
◎仏説阿弥陀経(ぶっせつあみだきょう)
この三経のうち、とくに『仏説無量寿経』を「真実の教」とお示し下さいました。
このお経には、すべてのわたしたちを苦悩の境界から救うのだという「阿弥陀仏」の大きな慈悲とお念仏のおはたらきが説かれています。
阿弥陀仏は自ら「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)」と名告(なご)り、私たちに救いの道を開いて下さいました。

この心を私たちの親しんでいるご和讃に
生死(しょうじ)の苦海(くかい)ほとりなし ひさしくしづめるわれらをば  弥陀(みだ)の悲願(ひがん)の船(ふね)のみぞ のせてかならずわたしける  『高僧和讃龍樹讃第7首』 とうたわれています。
生きているということは、そのまま苦海の中にあるのです。その中に沈みあえいでいる私たちは弥陀の悲願の船(阿弥陀仏の本願)以外に救われる道はないのです。
人間の根源的な救いが南無阿弥陀仏であると教えてくださっているのが『仏説無量寿経』です。

※ 「ひとくち法話」 真宗高田派本山より

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ひとくち法話

ほとけさまのこころ わたしのこころ
花屋さんの店先は、色とりどりの花で一杯です。
見とれていると『阿弥陀経(あみだきょう)』のことばがうかびます。
「池中蓮華(ちちゅうれんげ)大如車輪(だいにょしゃりん)青色青光(しょうしきしょうこう)黄色黄光(おうしきおうこう)赤色赤光(しゃくしきしゃっこう)白色白光(びゃくしきびゃっこう)微妙香潔(みみょうこうけつ)(お浄土はいろいろの蓮の花が咲き乱れ香り清らかで、調和しています。)」
お浄土とは、阿弥陀さまが私たちに安らぎを与えたい、流転輪廻(るてんりんね)から解脱(げだつ)されたいと願われて完成された世界です。
この願いには、必ず往生成仏(おうじょうじょうぶつ)させるとの阿弥陀さまの確信がこめられています。この確信を他力の信心といい、その願いを南無阿弥陀仏と聞いて歓喜(かんぎ)することも他力の信心です。
店先の花々は、見ている私のこころを明るくしてくれます。
ところで、どれか1輪をと思ったとき、私は落ち着けなくなります。どれにしよう、どれがいい、値段はいくらだろうという具合です。
お浄土のようだと思っていた私が大混乱です。
花屋の店先はもう「お浄土」に見えないのです。
美しい花があるのに、こころがゆれうごきます。
この定まりのない私たちの心のうごきを「自力のはからい」といいます。
「南無阿弥陀仏」を聞きながら「自力のはからい」がはたらくのです。
もっともっと阿弥陀仏の願いを聞き続けなければと思います。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

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ひとくち法話

四苦八苦(しくはっく)
そのお爺さんは92歳で亡くなられました。体の大きな人でした。晩年、手足が弱り長女の世話を受けていました。彼女は華奢(きゃしゃ)で、大きくて重いお父さんのお世話は大変だったらしく、よく腰が痛いと言っていました。
葬儀は穏やかな雰囲気のうちに行われました。しかし、いよいよ荼毘(だび)に付(ふ)されるという時、彼女はお棺にとりすがり、泣き伏してしまいました。親しい人の情でありましょう。
いかに、若くありたい、丈夫でありたい、生きていたいと思っていても、時がくれば、老い、病(や)み、死んでいかねばなりません。
それは、この世に生を受けた者にとって避けてとおることができないことです。お釈迦(しゃか)さまは、生・老・病・死の四苦を説いておられます。
さらにその上に、愛別離苦(あいべつりく)(いとおしい人と離れなければならない苦しみ)・怨憎会苦(おんぞうえく)(怨み憎む人と会わなければならない苦しみ)・求不得苦(ぐふとっく)(求めて得ざる苦しみ)・五陰盛苦(ごおんじょうく)(私たちの身心を構成する五つの要素から生ずる苦しみ)があります。先のものと合わせて八苦といいます。そこに私たちの現実があります。
苦しみは、しかし、ただ苦しみに終わるものではないのです。老いてはじめてわかること、病気になってはじめて気づくこと、また死に直面してはじめて見えてくることがあるのです。そのために、私たちは聞法にいそしまなねばなりません。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

 

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ひとくち法話

恭敬のこころに孤独なし(くぎょうのこころにこどくなし)
「好きな釣りだけではなく、旅行や地域活動にもできるだけ参加してきた。けど、なぜかいつも心は重く、あまり人と話をする気にはなれんかった」と嘆かれたお年寄りがありました。
奥さんに先立たれ、家族からも何となく疎外されるようになって、孤独な思いをもったのでしょう。それを振り払おうとして努力してみたが、心の空洞は益々深まって「何のために生きてきたのか」と自問自答するばかりだというのです。
本願力にあひぬれば むなしくすぐる人ぞなき 『高僧和讃 天親讃第3首』
これは親鸞聖人が和讃の中でのべられたものです。本願力とは苦しみ悩み続けている私たちを「必ず救う」という仏さまのお働きです。この教えにめざめると「何のために人のいのちをうけて、いきているのか」という理由がわかります。
ひとりで生きているという思いこみは疲れます。私だけが、うちだけが何故という自問自答では、道は開けてきません。私のいのちは、天地自然のめぐみ、社会の相互扶助、我が身の不思議な働きなど、すべて『おかげ』で生かされて生きていたということに気がつくと肩の荷が軽くなるでしょう。
そして、このおかげさまが、恭敬のこころです。
『おかげさま』といただく生活から、たくさんの人々との暖かい出会いが開かれてまいります。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

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ひとくち法話

御同行は法(のり)の友
「あなたの宗旨(しゅうし)は」「私は真宗です」「ご本山は」「一身田の高田本山です」「うれしいね私も同じや」電車の中で隣り合わせた見知らぬ人が同じ念佛の御同行であったということで、互いに意気投合して話に夢中になってしまい、ついつい乗り過ごしてしまったという人がありました。お念佛の友という所で人々は真に通じあえるのでありましょう。寺の法会に遠いところから参ってくださる奥さん二人がいます。一人は電車とバスで、もう一人はマイカーで。ある時「同じ方向なのですから私の車にお乗りになったら」ということから、以来申し合わせてお参りされるようになり、今では寺参り以外のいろいろの交際をされています。本当によき友が出来たと喜んでおられます。
富める中での貧しさは、人間関係そのものの上にますます顕著に現れます。地域社会や職場に於いてでだけでなく、家族の中でも親子の断絶、家庭内離婚等々家族そのものが崩壊しつつあります。人は真の心の通じ合った間柄がなければ生きて行けないから人間といわれているのです。
ご開山親鸞聖人は、御同行、御同朋(どうほう)と、お念仏のもとで結ばれる心の友を目ざして僧伽(そうぎゃ)の形成に力してくださいました。先ずは夫婦、兄弟、家族がかくあって、それを多くの人々へと広げて行きたいものです。「み仏の恵みをいただき、念佛のお同行として、世のため人々と共に歩みます」と、生活の指針にありすが、御同行は即ち法の友であり、温かい人間関係がうまれてくる源であります。
同一に念仏して別の道なければ四海のうち皆兄弟なり 親鸞
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

 

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ひとくち法話

煩悩具足のままで(ぼんのうぐそくのままで)
人間の心の中には、さまざまの欲望が渦巻いています。食欲・性欲・睡眠欲は、動物としての生きる本能でしょう。これに人間だけがもっている金銭的な欲望と他人に対する優越感や虚栄心から起こる名誉欲があります。これらをひっくるめて『貪欲(とんよく)』といいます。
次に自分の思惑と違って誤解されたりすると腹の虫がおさまらない、いわゆる「怒り、腹立ち、そねみ、ねたむ心」が湧いてくる。これを『瞋恚(しんに)』といいます。それに、もろもろの不平不満やいつまでも執着してあきらめきれない心を『愚痴(ぐち)』といいます。
以上の三つのものを総合して、「三毒の煩悩(さんどくのぼんのう)」といっています。
これを細かくわけていくと実に多くの煩悩がでてきて、昔から「108の煩悩」とか「8万4千の煩悩」とかいってきました。一般に「仏道修行(ぶつどうしゅぎょう)」というときは、その煩悩を退治するための修行のことをいいます。きびしい修業によってひとつひとつの煩悩を断ち切って仏の悟りにいたるのです。これは聖者(しょうじゃ)の道であります。
しかし今、私たちは、親鸞聖人のお導きで、阿弥陀如来(あみだにょらい)の本願のお力を聞信(もんしん)することによって、煩悩のままで救われていくという、他力念仏のみ教えをいただきました。煩悩具足の私たちにとっては、これがほとけになる唯一の道なのです。そして生きながらにして仏に等しい位につくと教えられ、これを『平生(へいぜい)往生』といい、また『現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)』とも『不退の位』ともいいます。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

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ひとくち法話

生もわれら 死もまたわれら
死ぬのはこわい、いつまでも生きたい、死なない方法はないものでしょうかとの願いに、ある人が一つあるよ、それは「生まれてこないこと」と言ったそうです。まことに明快な答えといえましょう。この世に生を受けた以上必ず訪れるのが死であり、例外は許されません。文字通り死亡率は100%です。あの一休禅師はこんな歌を残されています。
元旦や冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし
おぎゃあと生まれた時から、すでに死に向かって私たちは進んでいるといっても過言ではありません。志賀直哉さんの小説『城之崎にて』は作者が温泉で療養中、動物の生きざま、死にざまを目にして、その体験からつかんだ、生と死に対する感慨を述べたものですが、その結びとして「生きていることと、死んでしまっていることと、それは両極ではなかった」と述懐しています。丁度、紙に表と裏があって、表を生、裏を死と考えますと、表と裏はひっついており、切り離すことができません。それとおなじように、人間の生と死も別々のことではなく、死を抜きにしては生が考えられないわけです。つまり生を解決するには死を解決せねばなりません。
清沢満之師も「生のみが我らにあらず、死もまた我らなり」と述べられています。とかく私たちの日常は生きることばかり考えて死ぬことを考えないで生活しているように思います。いかがでしょう。何といっても人生における最大の事件は死であって、後生の一大事と受け取らせてもらいたいものです。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

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ひとくち法話

病とのおつきあい
日本は世界最高の長寿国だと言われています。その理由は医学の発達と食物等生活環境の良いことがあげられます。しかし、長寿なるが故に反面、複雑で多様な病にめぐりあわねばなりません。巷には病院や診療所などに病人が溢れています。病気になっても、なかなか死なせてもらえずに、病に苦しまねばなりません。病気にはかかりたくない、かかっても早く治りたいという気持ちは人情の常ですが、お医者さんだって、治せない病は治してくれません。病はいやだ、きらいだと逃げまわっていても、余計に悪くなる場合もあります。
真宗の教えの重要なことのひとつは、自分が凡夫であることの自覚によって「自力無効(じりきむこう)」とめざめることです。お医者の施療活動も、栄養や保健管理等も一種の自力のはたらきです。自力のはたらきには限界のあることも自覚せねばなりません。ある名僧は次のように語られました。「病気になるのは何かのたたりではない。病気は煩(わずら)わさせてもらうもの、病気になったおかげで、娑婆(しゃば)がわかり、人間そのものがわかり、自分の弱さや醜さもわかるのです。そして他人様の親切もわかるのです。病気は自分の凡夫性に気付く絶好の機会なのです。病気も仏作仏法(ぶっさぶつぎょう)、如来様のおはからいと申せましょう。」
このように病とおつきあいをすれば病も軽くなり、病の苦もへるのではないでしょうか。お念仏をいただくと、三世(さんぜ)の罪障(ざいしょう)が軽くなるという、ご和讃が改めて深く味わえます。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より
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ひとくち法話

老いを華やぐ
「としどしにわが悲しみは深くして いよいよ華やぐいのちなりけり」岡本かの子
私たちは暮らしながらに老いていきます。だんだん歯が抜け、腰やひざが痛くなり、耳も遠くなっていく。老いていく悲しみばかりなのに、岡本かの子は、「いよいよ華やぐ」と歌っています。限られた人生を歩き、人生を生きる。求めざるに、老いに「オイ」とポンと肩を叩かれて仰天する。仰天するんでなしに、後ろから近づいてくる老いを静かに眺めて、来るんならいつでもどうぞと言える生き方ならすばらしい歓びです。
私たちはそのためには、自分の老いを作り上げねばなりません。体の老いに抗することはできませんが、私の人生の生きようまで老いに押さえられてはなりません。人間の脳細胞は使わなければますます退化していくと言われています。70過ぎてからでも何かをする、新しいものに意欲を燃やす、趣味に生きる、みな老いを転換する方法です。しかし所詮この転換も本質的解決になりません。
岡本かの子は、実は親鸞聖人から華やぐいのちの歓びを頂いて生きていかれます。すばらしい芸術的素質を持ちながら、自己の煩悩にさいなまれ、夫一平の愛欲にも翻弄されていた彼女は、聖人の苦悩と煩悩に満ちた生涯、人間的な人柄にのめりこんでいきます。聖人の徹底した自己否定と自己批判、そこから生まれる凡夫の自覚を通してこそ他力念仏の道が開かれると教えられます。
人生の後半、望まずして必ず対面する老いにしろ、人間は与えられた宿命を背負いながら、自分の人生を歩く以外にどうすることもできない存在ですから、素直にそのままうなづいていくことが老いを超えていくことになるとおっしゃています。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

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