お寺の3月

お寺の3月
少しづつ春を感じる頃です。最近は、杉花粉の話題が多く、アレルギーの方には大変な時期だと感じています。妙華寺では、春彼岸のお勤めは春分の日にしていますが、お彼岸入りの頃からお墓参りに来られる方も多くなります。以前は、彼岸桜が咲く時期でしたが、今は、彼岸桜が2月の終わりには咲ききり、吉野桜も3月末頃に満開になる年も増えてきました。
宗教法人の年度末になりますので、下旬になると会計処理に時間がとられます。また、4月からの新年度への準備もまとめなければなりません。

※雨の影響で2月27日に境内駐車場のコンクリート打設が終わりました。一週間ほど養生して使用できます。ご迷惑をおかけしていますが、あとしばらくお待ちください。

3月の日曜学校は3日午前7時30分から

少しづつ春の日差しも感じますが、健康管理が難しいですね。
3月の日曜学校は3日です。朝7時30分から8時頃までです。
ご家庭での平素の朝時のお勤め(嘆仏偈・正信偈・5首和讃)を一緒にお勤めいたします。輪(りん)の鳴らし方や、念珠の持ち方もご一緒にしますので自然と覚えます。

また、ご参加いただきますと念珠の一珠をお渡しして、24珠で単念珠が、108珠で二連念珠ができるようにご用意しています。(親珠には「妙華寺」の寺院名が刻印されています)

風邪の症状や熱のある方はご遠慮願います。
マスクの着用は、個人の判断です。(お持ちでない場合お寺にお申し出下さい)
本堂入口に手指の消毒を行っていただき、うがいや手洗い場所も用意しています。
手が触れる出入り口のアルコール消毒もこまめにしています。
本堂内の換気・間(ま)の確保などして対策を講じます。
とはいえ、決して不安や不満を抱えながら参加する催しでもありません。
どうかご無理ない範囲で判断をしていただきますよう、よろしくお願いいたします。

 

いのちの日

いのちの日
京都府では、(平成28年から)毎年3月1日を「京都いのちの日」と定め、自らの命を見つめ直すとともに、家族や友人など周りの人にも思いをはせ、 共に生きることの意味や絆の大切さについて周知されます。

また、京都では、この趣旨に賛同した宗教者の活動の一つが「Life Walkいのちを想う宗教者の行進」があります。宗教者でしたらどなたでも参加できるようですので時間が合いましたらお申し込みをして参加してください。(Life WalkのHPから申込)

行政が進んで、「自殺(自死)対策」に取り組まれ、全国に「いのちの日」が広がることを願っています。

三重県こころの健康センター主催の「自死遺族の集い」(わかちあいの会)
【お申し込み・問合せ】三重県自殺対情報センター
059-253-7821(平日8:30-17:15・祝祭日・年末年始除く)

自死遺族サポート ガーベラ会主催の「自死遺族の集い」(わかちあいの会)
【お申し込み・問合せ】mail miegabera@gmail.com
HP http://www.miegabera.jp

茶陶

茶陶
私(住職)には、茶道具だけ作陶する知人がいます。彼との出会いは、お茶を学んでいる時代に青年部と言う組織で知り合いました。茶道具だけ作陶する家に生まれた3代目でした。裏千家に出入りする窯元で、当然、茶道具に詳しく見るべきポイントを教えてもらったり、歳も近く青年部活動の時代も重なり、親しくさせていただいています。

コロナ下の時間は、茶道の世界も「場」としての茶会や行事の開催がなく、そこに関わる1つの茶陶の展示会などの開催も中止が余儀なくされていたそうです。

本当に久しぶりに津市で展示会が開催され出かけました。長年会うことがなかっても、会えば自然と話すことが出てきてわずかな時間でしたが豊かな時間でした。

展示会では、いろんな茶道具が展示されていました。今回は、織部釉についてお話を聞きました。

美濃出身の古田織部が好んだ焼物が織部焼とも言われています。形がいびつであったり、斬新な文様であったり、釉薬も緑・黒など多彩であり、現代的な焼物で人気がある1つです。。その中で織部グリーンの茶碗がとても新鮮に見えました。
何か、京焼にも通じるような色合いと感じるのですが、織部なんだそうです。

祈りと願い

「祈り」と「願い」
言葉の学術的な意味までは調べていませんが、インターネットで「祈り」と「願い」の違いなどは簡単に知ることができます。あるページでは、「祈り」は利他、「願い」は利己と説明されていました。また、「願い」は「お願い」として依頼の意味もあるようです。
どうして、調べる気になったかと言えば、真宗では「祈り」はあまり使いませんが、「願い」は使います。真宗で使う「願い」は、私の「願い」でなく、阿弥陀如来の「願い」として使われています。

私が「願う」のでなく、「願われている」私に気づくことからはじまる教えです。

お別れホスピタル

前回のブログではラジオの番組のことを紹介しましたが、今回はテレビ番組からの感想です。

夜の時間はテレビを見てしまいます。
先日、NHKのドラマ「お別れホスピタル」を見ました。四回連続の三回目でした。終末医療の病院で「いのち」終えようとする人たちと関わる医療従事者のドラマです。少し重苦しいテーマで、いろんなことを考えさせられます。
「まだ生きたいと願う」患者や「生きていてほしいと願う」家族や医療従事者。生きたいと願うが、助けることができない「いのち」に納得する答えはないし、「限られたいのち」であることを頭の中では理解しているが、心(感情)が受け入れることができない状況。ドラマを見ている私さえ、混乱してしまう感情があります。
ドラマの中で発せられた「希望」や「サンタ」の言葉に思いを馳せました。

そして、突然ですが、対人支援の「キュア」と「ケア」について思い出しました。
何年か前に、医療現場での「キュア(治療)」と「ケア」の関係を教えていただく「スピリチュアルケア」について学ぶ機会がありました。ただ、医療現場に限ると「キュア」に限界があるので「ケア」が必要なことはわかりますが、私たちが生きている中では医療現場でも日常生活でもどのような状況でも「ケア」は必要なのだと改めて感じています。
※中川個人の感想です

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NHKラジオ第1「ふんわり」

NHKラジオ第1で「ふんわり」という番組があります。私(住職)はこれまで視聴したことがありませんでしたが、2月16日の番組内で、「自死」について視聴者からの投稿に、京都自死・自殺センター「Sotto」のメンバー(専門家)がお話をすることを知り、視聴しました。
私(住職)は、これまでも「自死」についての講演会や研修会には参加したことがありますが、ラジオ番組で「自死」について、どのように語られるか興味がありました。
一般的に、「自死」について語られる時、「自死」は良くないこと、やめなさい、死なないでという立場からの話になります。私(住職)も「生きていてほしい」思いで、「死にたい気持ち」を抱えた方に、そのような言葉をかけたこともあります。
でも、京都自死・自殺センター「Sotto」の考える「自死・自殺」についてメンバー(専門家)の言葉から、「死にたい気持ち」を抱えた方は、「死ぬしかない」「生きているより死ぬほうが楽になる」ほど「生きること」の辛さや悲しみを抱え込まれていることに目を向けると、その方の思いを私の価値観でジャッジすることはとても高慢な思いであるのかと感じました。また、「自死」に限らず、大切な方を亡くした遺族や関係者の思いで、自責や後悔を抱えることも確かだと思います。私も父母や妹を亡くした遺族として「生きているうちにもっとできたことは無かったのか」と省みるのですが、例えば、明日「いのち」が終わることで今日できることを考えた時、限られたことしかないのかもわかりません。
1人の出演者の「思い出すことが供養になる」という言葉が、印象的でした。亡くなった方と今の自分が向き合うことができているか問われているように感じました。
番組名の「ふんわり」な雰囲気やリスナーからの感想や思いなどの紹介もあり、とてもあたたかな気持ちになりました。日本の一年間の自殺者数は、以前に比べると少なくなり、二万人台ですが、「死にたい気持ち」になることは、誰もが起こりえる気持ちであり、恥ずかしいことでもなく、その気持ちを吐き出すことからはじまる生き方を支える活動に頭が下がります。

私(住職)は、ラジオ番組を聞く時、とっても失礼な態度かもわかりませんが、「ながら聞き」になってしまいます。学生だった時も、勉強をしながら、社会人になっても、車で運転しながら、家でも何かをしながら聞いてしまっています。でも、今は、聞き逃し配信(一週間限定)なるものがあります。もう一度しっかり視聴しようと思っています。
※中川個人の感想です。

真宗入門講座

真宗入門講座
昨年から高田本山に伝わる「親鸞伝絵」の紹介で「信行両坐」の段でした。
詞書には、法然聖人の教えに集まる多くの門弟に、親鸞聖人が、「阿弥陀仏の本願を信ずる一念に浄土往生が決定すると信ずる(信不退)の坐と、念仏の行をはげむことによって、その功徳によって浄土往生が決定すると信ずる(行不退)の坐に、どちらにするか、おのおのの態度をお示しください」とあり、絵相は、法然聖人を中心に、信不退の坐に、聖覚、信空、親鸞と、遅れて駆け付けたと思われる法力が描かれ、行不退の坐に多くの門弟が描かれています。

「信と行」についてを「一念と多念」で語ることは、法然聖人の生きた時代性も考える必要もありそうです。念仏とは観想念仏が主で称名念仏は主ではなかった時代です。
また、「信と行」も阿弥陀さんから賜った「信行」であることもおさえておかないとすっきりしません。「信行両坐」は、親鸞聖人が法然聖人の教えをそのまま受け継いだことをあらわしている場面の一つとして紹介されているのでしょう。

※次回は、3月26日(火)13時30分からです。妙華寺の副住職が「信心諍論」の段を紹介します。

お寺とは②

お寺とは②
多くの日本人が、年に一度か二度(お盆やお彼岸)、墓参をすることは、知られています。妙華寺の境内墓地でも、春秋のお彼岸やお盆の時は多くの方がお墓参りをされています。そして、帰り際、本堂に向かって手を合わせる姿も多く見受けます。
しかし、本堂の中まで入り、手を合わせる方はやはり少ないと感じています。
本堂に入るには、入り口で靴を脱ぎ、階段を上がらなければいけないので、億劫なこともうなづけます。「お寺は敷居が高い」って言葉もありますよね。
本堂は何のため、誰のためにあるのでしょうか。本堂での葬儀や年忌のお勤め、お寺の行事の時に集まっていただく場合がほとんどですが、本来は、真宗ではあまり使わない言葉ですが、祈りの「場」であり、真宗では、仏(阿弥陀如来)のいわれを聞法する「場」から発生したものだと思っています。「場」に集まることで関係性が強まることも感じるのですが、今は、自分の生き方を宗教に求めることなく日常生活が営まれている時代なのでしょう。日常生活の問題についての解決の「場」は、お寺以外でたくさんありますが、自分の生き方や悩みを話したり、気づいたりできる「場」の一つがお寺だと思っていますが、皆さんはどう思われていますか。
1人でも今の自分の生き方に迷い、阿弥陀如来の教えを求める方に、「場」が開かれています。

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【案内】仏涅槃図の荘厳

【案内】佛涅槃図を荘厳しています
佛涅槃図は、釈迦(しゃか)の入涅槃の場面を描いたもので、釈迦が亡くなられた2月15日の涅槃会で本尊とされます。
平成24年から、妙華寺では、2月15日から1ヶ月間、本堂西余間(むかって左側)に涅槃図をお掛けしています。
妙華寺所蔵の佛涅槃図は、江戸時代の久居の大火で焼失しました。
今お掛けしていますのは、平成23年の親鸞聖人750回御遠忌の記念として高田本山より京都別院の佛涅槃図の複製が配布されましたものです。
京都別院の佛涅槃図は、室町時代の兆殿司筆で、大きさは、縦151.2cm 横128.7cmです。
本堂にお上がりいただきお詣りください。

※また、高田本山では、3月15日頃に如来堂にて佛涅槃図がかかります。(詳細は高田本山のHPでご確認ください)