こどもの日に

こどもの日に
「仏の子」と言う言葉をお聞きされたことはあるでしょうか。
私(住職)は、中学校の仏教の時間で初めて聞いたように思っていますが、どのような場面で聞いたかは忘れてしまいました。仏教の中で「仏の子」は、私たち人間は必ず「仏」になる「仏性(ぶつしょう)」があることで、「仏の子」と言われるのだと聞いたと思います。
ただ、真宗の教えでは、私(凡夫)には「仏性」はなく、阿弥陀如来の本願力によりいただく信心を「仏性」とすると教えていただきました。
「この私(凡夫)には「仏性」がないこと」をどのように受けとめるでしょうか。
真宗以外の仏教では、人間は「仏性」を備えているので、修行(努力)すれば「仏」になれるのに、真宗の教えでは、私には「仏性」はなく阿弥陀如来の本願力によりいただく信心が「仏性」なんだよと聞けば、どうしてなのかちょっと反発したい気持ちにもなりますよね。

よくよく考えてみると、真宗以外の仏教と真宗の仏教では、私への見方が違うからです。

今の時代は、自分の良い点を見つけて才能を伸ばすことがポピュラーで、悪い点ばかり指摘することはダメな方法と言われます。
どのように自分自身を見つめていくか、厳しいことですが、親鸞聖人は「凡夫というは無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらわれたり」と著していただいています。

私に「仏性」がこれっぽちもないと気づくまでが大切な時間なんだと思います。
そのことがあって初めて、阿弥陀如来の本願力に出遇えるのですから。 

知覚

知覚について
普段の生活であまり感じないことですが、視力・聴覚・嗅覚・味覚・触覚について話がおよんだことがありました。

それは、新型コロナウィルス感染症の後遺症で、嗅覚や味覚がこれまでと違ってしまうことからです。
嫌な臭いや良い匂いを感じない感覚、まずいや美味しいを感じない感覚は、新型コロナウィルス感染症の後遺症だけでおこるものでもなく、これまでも、誰もが、風邪で鼻づまりの時や高熱で寝込んでいる時などでも経験をしたこともあると思います。私も経験がある嗅覚・味覚に障がいが出た時の感覚は、限られた時間でしたが、あまりよいものではなかったと思います。
視覚や聴覚に障がいがあれば、周囲が見えない・音が聞こえない感覚も疑似体験をするだけでもとても大変だと感じます。

そのようなことを思いながら、私の視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚ははたして普通なんだろうかと振り返ってみると、私の視力は強度の近視でメガネで矯正していますし、聴覚は先日の健康診断で高音が聞こえにくいようで精密検査をするように言われています。嗅覚だってそれほど確かな(鼻がきく)ものでないし、味覚も味が濃いものが好きで、繊細な味覚を感じているか疑問です。触覚も年と共に感じにくくなっているようにも思います。

これまで、私は、光が届かずなにも見えない世界や音が無い世界、無臭の世界、味覚を感じない世界、触覚を感じない世界が、知覚障がいと捉えて、生活する上で不便であると思っていました。しかし、私自身の見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったり、手や身体で感じたりしている感覚も、私だけの感覚で他者と同じではないことに思いいたりました。
また、私が知覚障がいと捉えている感覚は、ひっとすると法性(ほっしょう)の世界なのかもわからないと考え直しています。

【報告】春千部会お勤めしました

【報告】春千部会
昨年に続いて、今日は、あいにくの雨で足もとの悪い中でしたが、ご参詣いただきありがとうございました。法話は義明寺の高藤英光師で、高田の千部会についてお話いただきました。お寺が続く限り往生された方の法名を西余間に掲げてお勤めさせていただいていますが、どのようにお感じになりますか。この世でいのち終わった時、直ちに往生(浄土に生まれる)する身ですので何も心配はありません。この私が往生できる身であるか心配されているのです。お念仏申すことの本当の意味を、「聞法」を通して我が身にいただいていく機縁であります。

引き続き、お世話方様にはマスク着用・手指の消毒・検温にご協力いただきながら、妙華寺会館も感染防止対策としてテーブルに仕切り板を設置し、世話方会も開催させていただきました。
集うことを通して、これからのお寺についてお世話方様から直接お声をきくことができることはありがたいことですが、年1度の総会の中で意見交換ができることほんの少しのことであります。
もう少しカジュアルな場も考えて、ご意見交換ができるように考えていくことにすることになりました。