隣寺との境界

隣寺との境界
江戸時代、久居の町ができる時に寺領をいただいて350年ほど、隣のお寺とは、境内墓地の部分で分かれています。樹木での境界で、これまでも植え替えをしながら今に至るのだと思っています。そろそろこの境界となる樹木も朽ちる部分もでてきましたし、蜂の巣ができたり今の時代にそぐわないように感じている方は、隣寺の檀家さんや拙寺の檀家さんにもいらっしゃるようです。先日、隣寺の寺族さんとお話しする機会があり、新しい境界を考えなくてはいけないと考えていらっしゃるようです。
そうすると、妙華寺でも考えていかなければなりません。
考えられることは、まず境界の測量をし直して、今ある樹木の撤去と新しい境界物を作ることになります。およそ180mほどの境界のことでありますが、数年かけて行う事業となると思われます。

【報告】真宗入門講座

真宗入門講座
12月9日高田本山にある高田会館にて、感染対策を講じながらの開催でした。
真宗入門講座は、今「讃阿弥陀仏偈和讃」を取り上げて、教学院第一部会の研究員が担当する連続講座です。
今回は、研究員である衆徒の中川鳳瑞(結幾)が担当で、第28首目の「阿弥陀仏のみなをきき 歓喜賛仰せしむれば 功徳の宝を具足して 一念大利無上なり」の和讃を通してお話しました。


私たちは、話をすることと、聞くこととではどちらに時間を費やしているでしょうか。そして、聞くことにどれほど集中して聞いているでしょうか。聞いているようで他のことを考えているなど反省することが多いとも感じています。
親鸞聖人が和讃を創られたことは、当時は努力しないと学ぶことができない仏法を和文の七五調の言葉にのせてわかりやすく仏法を広く伝えたい気持ちがあったからだと思います。
お釈迦様の教えの中で、親鸞聖人が選び取られた浄土の教えを聞くことは、今では、多くの書物や新しい媒体を通しても可能な時代ですが、これまでの対面の場でお聞かせいただくことは私(住職)にとって馴染みあることでうれしい気持ちになります。
また、遠方にもかかわらず、妙華寺のお同行の方々もご参加いただきありがとうございました。早速、感想もいただきお礼申し上げます。

前坊守の一周忌

前坊守(母)の一周忌
お寺の報恩講の日ではありますが、午前中にお勤めをしました。
コロナ下ですが、遠方からもご焼香をいただいたり、小さな子ども(母から見るとひ孫)さんもお越しいただき、また、お同行様からも弔意をいただきありがとうございます。
本当に時が経つのは早いもので、あわただしく過ぎるものです。今一度、自分がどのように生きているか振りかえる時間でした。

【お寺の寺報より】
前坊守のこと
前坊守(母)は、令和2年12月5日に往生しました。89歳でした。丁度、お寺の報恩講の前日で、報恩講に遇いにこられたように感じています。

母は、前々住職の4人姉妹の長女として昭和6年に生まれました。10代半ばで終戦を迎え日本中が困難な生活をしている中の苦労も経験し、その苦労話も随分前には聞かされたことを思い出します。23歳でお寺の養子になる私の父を迎え、25歳で私が生まれました。前々住職の時代もそうですが、前住職と共に坊守としてお寺の護持をしっかり守っていただきました。

私が住職を拝命してからも、これまでどおり私の生活態度に対して厳しく、母が母の両親や祖父母から教えられた、今では時代遅れと思われるこれまでのお寺のしきたりや決まり事を私に教えてくれていたように思います。それに反発したり感謝する私がいます。厳しい母でありましたが、私が考えて行うことには、最後は順ってくれていました。

昭和・平成の妙華寺を長年寺族・坊守として支えていただいたことに感謝しています。
また、多くの皆様には親しく、お育ていただきましたこと、誠にありがとうございました。

【報告】報恩講をお勤めしました

【報告】報恩講
今年も報恩講を無事お勤めすることができました。
今年も新型コロナウィルス感染症の感染防止を考えて、例年、同じ組内のご住職方のご出仕(しゅっし)は控えさせていただき、衆徒(しゅと)と親戚寺院の教圓寺の衆徒様にご奉仕いただき、親鸞聖人のご遺徳を讃嘆させていただきました。

お勤めの後、2年ぶりに西本願寺派の布教使の葛野(かどの)洋明(ようみょう)師にご法話いただきました。「浄土真宗の救いのよろこび」を皆と一緒に拝読しながら、親鸞聖人がいただいたアミダ様のはたらきをお話されました。最近、師の同級生との別れを譬えに、アミダ様のはたらきに遇うことで感じることを丁寧にお伝えいただいたと感じました。ご法話は、布教使と聞法者が一緒に造り上げていく一座建立の場であることを強く感じました。法話の後、控室で、本願に遇うことは、悲しい話を悲しい話で終わらせない物語があると仰られたのが印象的でした。
※中川個人の感想です。

例年のお非時(びじ)と子ども食堂ですが、今年もお弁当の形でお持ち帰りしていただくのを基本としました。これまでと同じように皆が一緒に食事ができる時を望みながら感染症防止対策を講じていきたいと思います。

 

お寺の宝物

お寺の宝物 親鸞聖人絵伝
お寺の報恩講の時に、向かって左側に掲げて、親鸞聖人のご生涯と教えをわかりやすくお伝えしています。以前は、絵解きもあったようです。

親鸞聖人絵伝 4幅 妙華寺蔵
「親鸞伝絵」から図画の部分を抜き出し掛軸にしたものが「絵伝」で、場面は下から上へ順序よく配置され、各場面は「やすり霞」といわれる雲形で仕切っています。一般に4幅で一組です。

妙華寺の「絵伝」は、高田派第18世圓遵上人(1786年~1811年)の署名と花押が第4幅上段にあり、第4幅下段に絵師(御絵所)は藤原佐助とありますので、高田派の親鸞聖人絵伝と見られます。

親鸞聖人(1173-1263)真宗の開祖
藤原一族の日野有範の長男。「伝絵」によれば9歳の時に慈鎮和尚について出家、範宴(はんえん)と名乗る。約20年間比叡山で修学、常行三昧堂にて堂僧をつとめていたとみられる。29歳の時に比叡山を下りて、六角堂に参籠し、聖徳太子の夢告により法然を訪ね阿弥陀仏の本願に帰し、門弟になる。1205年『選択集』を附属され書写し、法然聖人の真影を図画。夢告により綽空から善信にあらためる。法然聖人のもとで学ぶ間に惠信尼と結婚したとみられる。承元の法難(1207)によって法然聖人らと処罰され流罪になり越後の国府に赴く。自らを非僧非俗とし愚禿(ぐとく)と称した。赦免されると妻子と関東へ移住し、茨城県の笠間市稲田を中心に伝道生活を送る。『教行証文類』を著し推敲を重ねる。62歳頃京都へ帰り、御消息によって関東の門弟を教化、交流する。『三帖和讃』をはじめ多くの著述を残した。
関東で法義理解の混乱が生じ、息男慈信房善鸞を遣わしたがかえって異義が生じ、建長8年(1256)に善鸞を義絶した。弘長2年11月28日(新暦で1月16日)弟尋有の坊舎で90年の生涯を終えた。

【妙華寺の親鸞聖人像】