お寺の宝物

六字名号 (専修寺第12世)堯慧上人筆 1幅
高田派の名号(みょうごう)で、専修寺第10世真慧上人が用いたと言われる名号の形式で、中央に「南無阿弥陀仏」と書かれ、その左右に、善導大師と法然聖人に続いて高田の歴代上人が書かれている。
向かって右上から「善導・親鸞・顕智(第3世)・定専(第5世)・順証(第7世)・定顕(第9世)・応真(第11世)」左上から「法然・真仏(第2世)・専空(第4世)・空仏(第6世)・定順(第8世)・真慧(第10世)」 左下に「愚老80歳 大正層堯慧 書之」とある。

この形式の名号を用いた真慧上人は、親鸞聖人の「み教え」の正統は、善導(大師)・法然(聖人)と続く高田派にあることを著したと思うが、堯慧上人の名号は、高田派の第11世応真上人と真智上人の正統争いが続いていた時代で、応真・堯慧と続くことが高田の正統であることを示しているとも見ることができる。

報恩講

井戸山の報恩講
毎年、妙華寺の井戸山地区ではお同行様のお仏壇で報恩講をお勤めしています。
今年もお勤めをさせていただきながら、親鸞聖人のご遺徳を偲びながらお勤めさせていただくことに変わりはありませんが、年々報恩講の意義が薄れていくようなことも感じています。このことは住職の責任でありますので、もう少し工夫をしなければと改めて感じています。

昨年(2020年)の振り返り

昨年(2020年)を振り返って
今年もよろしくお願い申し上げます。昨年のことでは、私(住職)もそうですが、皆さんも、新型コロナウィルス感染症のことが大きな出来事であったと思います。昨年の正月の修正会では思ってもみていなかったことで、世界中の人々が新型コロナウィルス感染症の不安を共有している時間は、そうそうないことで、私たちの生活様式に大きな変化がありました。
個人的には、老人保健施設に入居していました母(前坊守)に2月中旬から面会禁止が初まり、6月頃には予約面会で3回ほど面会ができましたが、7月から再び面会禁止になり最期を迎えるまで、面会は難しかったです。このことは、病院に入院されている方々も同じで、ちゃんと病院や施設のスタッフが患者・入居者を看護・介護をしていただいていることにとても感謝しているのですが、身内のわがままな発言として、身内や関係者が自由に会うことができにくい状態は気弱な気持ちになりやすいと感じました。
生活面では、食品や日常品を購入し一日を過ごすことができることがありがたいことではありますが、心が豊かに育まれる人と「出会う」こと「集う」ことがマイナスイメージで語られる社会が、これからも続いていくとすると、違う不安を感じます。
新型コロナウィルス感染症のワクチンの開発や医学の進歩で、感染症をコントロールできることになっても、これまでと同じ生活には戻らないと私は感じています。
今、私(住職)の頭の中は、マイナス思考でいっぱいですが、マイナス思考自体が悪いことではないと思っています。私の思考は、自分にとってプラス・マイナスと考えてしまう思考、それを俯瞰する思考がありますが、いずれも自分の中での思考です。自分の中の思考を離れた思考(私の場合は、浄土の教え)が大切なはたらきをしています。

年末に、久しぶりに、知人と対面での会話で「直感」と「直観」について改めて考えさせられました。「ひらめき」も大切ですが「真摯に物事に向き合う(観察する)」ことも大切で、私(住職)の場合「直観」についてもう少しちゃんと向き合わないといけないようだと考えています。
今、人と「出会う」ことや「集う」事が難しい時ですので、お寺(僧侶)も、IT技術を使ってのオンラインでお寺(僧侶)の情報発信が増えています。また、お寺(僧侶)も異業種との連携で、お寺(僧侶)の活動の可能性が拡がり、仏教(宗教)も社会に求められ開かれていくのは素晴らしいことですが、仏教の教えが利用(消費)されるのではなく、社会がどこまで仏教(宗教)の教えを伝える社会であるのか、(これまでの日本の歴史の中での仏教のあり方の繰り返し?ではダメですね)、そして、結局は、仏教は僧侶しだいと思われてしまうこともどうなんだと思ってしまう自分がいます。

修正会のお勤め

【報告】年末は、強風や雪で寒さも感じていましが、修正会の時間は風も弱く穏やかでした(昼からは強風になりました)今年も年の初めに、お念仏のみ教えに導かれて、お同行の皆様と一緒にお勤めさせていただくことができましたこと、年と共に有り難さが増してきます。

修正会のお勤めは、時間が早いこともあり、いつも緊張します。お仏飯の炊き出し時間、暗い中での鐘突(行事の開始の合図)、本堂の暖房など寺族が一丸となって準備をします。
お勤めは、鎮国文・重誓偈・正信偈・現世利益和讃(15首)・繙御書で、平素高田派のお勤めで和讃は五首ですが、修正会では15首拝読するのが独特です。
修正会には、必ず『繙御書』(ひもときのごしょ)を拝読いたします。
ひもとくとは、巻物をひもとくという意味です。一年の始めに拝聴する御書のことです。この御書は、本山第18世の圓遵(えんじゅん)上人がお書きになりました。一年の始めにあたって忘れてはならない仏法の要をわかりやすく説かれて、求道のこころを諭してくださっています。毎年拝読しながら、昨年1年を振り返りますと、過ぎ行く時間は早く、世務に明け暮れて、仏法に遇うことが難しいと反省ばかりです。

向かって左側の余間は、正月荘として、妙華寺の初代から11代の位牌や像・絵像を敬置します。