秋彼岸会は22日にお勤めします

Processed with MOLDIV

Processed with MOLDIV

法苑院妙華寺では、毎年春分の日・秋分の日の午後1時30分からお勤めと法話を勤めています。
親鸞聖人のご和讃に
「生死の苦海ほとりなし
ひさしくしずめるわれらをば
弥陀の悲願のふねのみぞ
のせてかならずわたしける」とお述べになっています。
苦悩の世界(此岸)に沈んで久しい私たちは、阿弥陀如来の悲願によって救われる(彼岸へ運ばれる)とお諭しになられています。
 9月22日(祝・木)午後1時30分からお勤めをいたします。
その後、真楽寺の鷲山了悟師のご法話がございます。
妙華寺では、ご法話をご聴聞していただくと法会参加票にスタンプを押印させていただいています。ご聴聞をお喜びするご縁となりますように、10回ご参加いただきますと記念の品をお渡ししています。
2015-12-01お説教とご法話②FullSizeRender

生活の中の仏教のことば

安心(あんじん)
一般には「安心(あんしん)」です。心の迷いや悩みが晴れた状態をいいます。
仏教では、ほとけの教えにハイとうなずく心を「安心(あんじん)」といい、「信心(しんじん)」と同じ意味で使います。だから安心という二字は同じでも意味に違いがあることを知って聴聞(ちょうもん)しましょう。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

ひとくち法話

お浄土(おじょうど)
「人は死んだらしまいさ、地獄や極楽なんてありはしないさ。生きている間に、好きなことをしなくては・・・。」
よく世間で聞く話ですが、このような人は、「生死(しょうじ)」の問題を他人のこと、世間のことと考えて、自分のこと、自分の問題と本気に考えていないからではないでしょうか。
世はまさに何が起きるかわかりません。私自身は常住ではありません。いつか必ず命も傷つき終わります。明日がその日にならんとも、です。
親鸞聖人(しんらんしょうにん)は「弥陀五劫思惟(みだごこうしゆい)の願(がん)をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞1人がためなり」と言われました。浄土があると信じることは、他人事ではなく私自身の信心の問題です
私たちは死んだらお浄土に往生させてもらう以外にないのです。
お浄土とはどんな所でしょうか。
阿弥陀仏が成就された世界で、阿弥陀経(あみだきょう)や観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)には、実に美しくて、すがすがしく、にぎやかな世界であると説かれています。
この頃の仏教学は理屈が多く、浄土の有無(うむ)を論じたり、いろいろ経典の比較論考をしたがり、理論や知識に溺れがちですが、お浄土のことについていえば、お浄土は私にとって、なくてはならない仏さまの世界であるのです。
『世尊我一心(せそんがいっしん) 帰命尽十方(きみょうじんじっぽう) 無碍光如来(むげこうにょらい) 願生安楽国(がんしょうあんらっこく)』なのです。
このようにいただけば、この世〔現生(げんしょう)〕の生き方も浄土への道程と領解できましょう。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より
キーワード2

Processed with MOLDIV

Processed with MOLDIV

 

葬儀について

Processed with MOLDIV

Processed with MOLDIV

 葬儀について皆様はどのようにお考えでしょうか? 多くのご意見があろうかと思われますが、妙華寺の現状を振り返ってみます。
私のお寺では、昭和12年頃から火葬が始まり、次第に増えていきますが、成人の方の埋葬(土葬)での葬儀の最後が昭和40年で1軒行われています。(昭和39年は2軒、昭和37年は3軒)私が生まれた頃(昭和31年)から境内墓地の整備が持ち上がり、昭和40年頃に現在の形になりました。
埋葬の時の葬儀は、本堂の前の境内で行われていたようで、野仏(のぶつ)と呼ばれる来迎図の掛け軸をご本尊としてお迎えして、真宗高田派の伝統である、野袈裟(のげさ)と呼ばれる七条袈裟の幅の正絹に名号が書かれているものを棺桶にかぶせて葬儀をしていたようです。
火葬での葬儀は、今から10年ほど前までは、骨葬(こつそう)と呼ばれる火葬してから葬儀をする形でした。これまで、自宅での葬儀やお寺での葬儀が、昭和60年頃に、隣の市に葬祭ホールができ年々ホールでの葬儀が増えて、10年ほど前に市内に葬儀ホールができると今は全て葬儀ホールでの葬儀になりました。また10年前に市町村の合併が行われ、これまで骨葬での葬儀が、火葬前に葬儀をすることになり、火葬時間に合わせて葬儀が始まることになりました。
お通夜については以前にこのブログでも書きましたが、前々住職の代までは僧侶にお勤めを依頼されることはありませんでした。組内(町内会)が中心となり喪家になりかわり通夜から葬儀まで取り仕切って役割を果たされていました。お寺のある組内でも亡くなられた方のご自宅でのお通夜に坊守が組内の一員としてお勤めに参加していました。前住職の代になり、組内でお通夜や葬儀での役割を担うことができない地域が出てきて、お通夜でのお勤めを依頼されるようになりました。お通夜のお勤めに何をお勤めするか当時の住職と話し合い、「阿弥陀経」・「文類偈」・「五首和讃」・「短念仏」・「廻向文」として今に至ります。
葬儀式は、お寺での葬儀(骨葬)の流れに従っています。本堂では、最初に内陣に住職や法中が出勤して「阿弥陀経」・「短念仏」・「廻向文」・「歎仏偈」・「短念仏」・「廻向文」・「引声念仏」をお勤めし終わると、大間に設えた祭壇の前に、住職と法中が移動して着座し、「勧衆偈」・住職の焼香・弔辞や弔電の拝読の後、「正信偈」が始まると喪主の焼香・親族の焼香・参列者の焼香が続きます。お勤めは、「正信偈」・「三重念仏一首和讃」・「引声念仏」で終わり、最後に喪主と親族代表の野礼(のれい)があり、僧侶が退出します。自宅で葬儀の場合も、葬儀ホールでの葬儀の場合も同じ形で阿弥陀仏にひとしく摂取されている恩徳に感謝できるよう心がけています。その後、現在は出棺の準備でご往生された方へお花でのお別れがあり、火葬場へ出発します。
 これまでの葬儀を考えますと、ご往生された方のご縁のある方々(家族。親族・友人・地域の方)が一緒に悲しみ、時間を過ごしていたように感じられます。お通夜から、組内の方々が中心となりお勤めをして、食事の用意も組内の方々がして、喪家の方の悲しみに寄り添って、葬儀、その後の49日までのお勤め。その後の年忌にも家族と同じようにお勤めをしていたことは今で言うお寺を介しての公益としての機能が発揮されていたことと思います。そこには、私たちは共に生かされていると言う感謝があってのことなのでしょう。
現在では、僧侶を必要としない葬儀もありますし葬儀自体を省略する場合もあるようです。その理由にはさまざまなことがあるのでしょうが、大切な方がご往生されたことを縁として仏法に遇うことや大切な方を亡くされた喪失感や悲しみの中にあるご遺族の心情についは個人的なことと考えられているようです。
 また葬儀を通して地域のコミュニティを見ますと、私の地域では30年ほど前までは、葬式組と言われる組内(町内会)の役割は果たされていました。徐々にではありますが高齢化や世帯や人員の減少で最小単位と言われています葬式組のコミュニティの役割も果たされることができなくなり、葬儀は家族や親戚が執り行うようになり、親戚関係も希薄化することで、次第に家族の葬儀になりつつあります。ご往生された方も、お送りする側にも社会との関わりがあるのですが、以前ほど葬儀は社会と関わる役割(公益)が少なくなってきていると感じられていることも背景にはあるのでしょうか?
一度失ったコミュニティは元に戻りませんので、葬儀が社会と関わる役割(公益)をもう一度見直しながら、新しい役割(公益)が構築できるか考えていきたいと思います。
 親鸞聖人は90歳でご往生されました。その時、「それがし閉眼せば賀茂川にいれて魚に与ふべし」とおっしゃったそうです。現在ではご往生される側の意向を優先する場合が多いですが、親鸞聖人を尊敬するお弟子さんや親族はそうはしませんでした。葬送の儀を行い、その後ご遺骨はお弟子さんに分けられ、お墓がつくられて、堂宇を守りながら今にいたります。私(住職)には、お送りする側の温かいお心を感じます。
 また、葬儀とは別ですが、親鸞聖人のご命日に、この私がお念仏のみ教えを伝えくださった親鸞聖人のご生涯に報恩させていただくことができることも、とても有難いことです。私の大切な方がご往生されてからも私の中で遇えるという気持ちは安心につながるものと思っています。
Processed with MOLDIV

Processed with MOLDIV

四季の花

四季の花 台風の影響でかすっきりしない天気が続いています。ここ数年は9月のお彼岸でもお堂の扇風機を回していますが、秋の花が少しずつ増えているようです。
境内の秋明菊、ススキ、ムラサキシキブの実が色づき始めました。

Processed with MOLDIV

Processed with MOLDIV

9月の日曜学校

9月10日から12日に第14世堯秀上人350年忌法会 第16世堯円上人300年忌法会が高田本山でお勤めされます。
両上人について振り返ってみます。
堯秀上人在世の時代は、天正8年(1580)に焼失し天正16年(1588)に落慶した一身田の御堂が再び正保2年(1645)1月に炎上しました。堯秀上人の法嗣の堯朝上人の代でありましたが、堯朝上人が江戸に滞在中の事であり、翌年再び堯朝上人が江戸の幕府へ行かれて5月に自害されました。再び堯秀上人が住持職として、左大臣花山院定好の第4子を迎えられ法嗣として教育されました。津藩の藤堂高次が土地を寄進(現境内地の西三分の二にあたる)して今の境内地の規模になり、万治2年(1659)に御堂の再建に着手し、寛文6年(1666)に現在の御影堂が完成しました。また、承応元年(1652)堯朝上人の7回忌に際し、内室の高松院の発願で洪鐘が鋳られ、その後鐘楼が造立されました。
第14世堯秀上人 寛文6年(1666)12月19日(陽暦1月13日)85歳
「つらつら世間の転変を観ずれば、哀傷の涙 袖にあまり」と仰せられた上人は、御内室にも早く先立たれ、両堂の焼失、堯朝上人のご逝去、「かなしみ肝に銘ず」とは実感のお言葉と拝する。今日まで門末は、この御書を拝誦して、無常を感じ、大悲の恩徳を喜ばせて頂いているが、65歳の後老境をもって、法嗣の育成、山内の復興、年譜のごとく、言語を絶するご苦労をされた。御影堂再建という、現代ではもうできない文化財をお残しくだされ、「他力の御廻向によりて、往生決定する」幸せを感謝せよと、改悔文に仰せられて、門末を教導せられたことを忘れてはならない。
第16世堯円上人 享保元年(1716)7月27日(陽暦9月12日)76歳
堯朝上人のご逝去によって、翌々年、堯秀上人は花山院から8歳の上人を迎え、とくに教育に留意せられたようである。『興御書抄』(恵雲著)に「寛文第3暦5月21日 御子達御披露恵雲」とあるのもその一例と拝察する。東都に遊学した普門も帰り『教行信証師資発覆抄』250巻の大著をなし、恵雲は『教行信証抄』を刊行した。東西にも本典講録の刊本なき時代であるだけに、諸学匠はたいへん参考したという。安居の制を定められ、学事は大いに盛んとなった。歴代御廟の建設、山門建立、野州高田山本堂再建などされ、宝永7年(1710)職を円猶上人に譲られた。
【高田本山の法義と歴史より】
 改悔文(がいけもん)
他力の御回向によりて、雑行雑修疑心自力をすてて、阿弥陀如来後生御たすけ候えと、たのみたてまつる最初の一念に、我らが往生は決定と領解いたし候。このうえには命終わるまでの念仏は御恩報謝とこころえ申し候。かように聴聞申しわけ候ことは、御開山聖人、次第御相承、今日御出世の善知識の御恩と、ありがたく存じ候。今よりのち、善知識より定め示さるおもむき、そむき申さぬように、たしなみ申すべく候。御恩ありがたや。 南無阿弥陀仏
※改悔(かいけ) あやまちを悔い改めることまた、自力を悔い改め他力にまかせること
 妙華寺では、自宅での年忌法会の後、「改悔文(がいけもん)」を拝読しています。
  寺勤めでは、「御書」を拝読しています。
年忌 故人の毎年の祥月命日のこと。故人を縁として仏法に遭い、阿弥陀仏の恩徳に報謝する思いでお勤めされます。
Processed with MOLDIV

Processed with MOLDIV

ひとくち法話

二種深信(にしゅじんしん)
辶(しんにょう)のままで迎(むか)える米寿(べいじゅ)かな
ある寺の伝道掲示板にかかれていました。「迷ったままで88歳にもなりました」というほどの意味でしょう。はじめは何とも寂(さび)しく空(むな)しいことだなと思いましたが、何度も口ずさんでいると阿弥陀仏のご本願にあえた喜びが伝わってきました。
中国の善導大師(ぜんどうだいし)が「わが身は、現にこれ罪悪生死(ざいあくしょうじ)の凡夫(ぼんぶ)にして、昿劫(こうごう)よりこのかた、常に没し、常に流転(るてん)して出離(しゅつり)の縁あることなし」(機の深信 きのじんしん)と現在、過去、未来の3世を通して救われようのない自分であることを深く表白(ひょうびゃく)されています。その大師のお心に通じるものをこの句から感じました。
大師は、続けて「阿弥陀仏のご本願は、かかる衆生(しゅじょう)を摂受(しょうじゅ)したもう。疑いなく慮(おもんばか)りなくかの願力(がんりき)に乗ずれば、定めて往生を得る」(法の深信)とのべられ、阿弥陀仏のお誓いを仰がずにおれない心の確立(かくりつ)こそ大事であると教えられました。
思うに私たちの日常生活は、勝った負けた、損した得した、好きや嫌いやの日送りであり、これが迷いであるとは考えてもみないことです。これが最も救いようのない生き方です。罪悪生死の身であることの自覚は、阿弥陀仏の光にあった証(あか)しです「迷のままで迎える米寿かな」は、この二種深信という教えを通して、すでに仏さまの呼び声を聞いておられるよろこびの歌だったのです。
迷い続けているままが、仏の光に照らされているということでありました。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

キーワード1

Processed with MOLDIV

Processed with MOLDIV

お寺のホームページ開設して1年が経ちました

Processed with MOLDIV

Processed with MOLDIV

お寺のホームページ開設一周年記念 3つのキーワードを見つけて
私(住職)には、ホームページを作成できる知識も技術もありませんでしたが、お寺を応援してくださる(一社)お寺の未来様のお力をお借りして、昨年の9月にお寺のホームページを開設して1年を迎えようとしています。お寺のホームページを開設しましたことは、お堂の掲示板や行事案内・寺報などでお知らせをしていますが、まだまだご承知いただいていないようです。ご年配の皆様にはホームページと言われても何のことやら分からない部類の1つかと思われます。もしご年配の皆様のご家庭に若い世代の方々でパソコンやスマートフォンをお持ちの方がいらっしゃいましたら、インターネットで https://www.myoke-ji.com と入力をしていただきますと、法苑院 妙華寺のホームページが閲覧できます。(法苑院妙華寺や妙華寺で検索していただいても法苑院妙華寺のホームページが検索できると思います)またその中の、「お寺からのお知らせ」の記事は、お寺の行事の案内や住職が日頃感じたことまたお同行の方の投稿もございますので、時間がございましたら一度ご覧ください。
この度は、ホームページ開設1周年を記念して、9月中の「お寺からのお知らせ」に掲載します3つの記事(ブログ)の中で3つにキーワードをお知らせします。そのキーワードを集めて、ホームページの下部にあります「お問い合わせ」に3つのキーワードを記載してメールしてください。メールをお送りしていただいた方へ記念品をお送りします。締め切りは9月30日までです。
これからもお寺のホームページもお楽しみください。
Processed with MOLDIV

Processed with MOLDIV

ホームページを開設して何が変わったか? 私(住職)の毎日の生活への見方が変わりました。お寺の行事を行うことは別段これまでと違うわけではありませんが、そこに至る過程を丁寧に見ることになりました。私(住職)が法務を初めて40年ほどになりますが、変わってきた部分について改めてその背景に気づいたりします。お同行の皆様におかれましても生活の変化を感じられていると思います。変わるべきものと変わらないもの、必要とするものと必要でないと思えるもの、お同行様の視点でお寺をどのように感じられているのでしょうか?
葬儀や法要のお布施を消費者目線だけで論じるのは良くないことですが、葬儀や法要をお願いされる方からはどのように感じられているのか。お寺のパートナーとしてのお同行様のあり方がこれまでとこれからではどのように変わっていくのか。お寺のあり方についての色んなご意見をいただきながら、この先にある妙華寺のあり方をお同行の皆様や地域の方々と共に考え、目指していきたいと感じています。
※3つのキーワードをお送りいただくことも、皆様のお寺へのご意見も「お問い合わせ」にてお送りください。よろしくお願いします。

9月の日曜学校は4日です

Processed with MOLDIV

Processed with MOLDIV

 

9月の日曜学校は4日です。 朝7時30分から8時頃までです。
日中はまだまだ暑いですが、朝晩の涼しさが心地よく感じます。
学校の二学期が始まる子ども達のように新しい気持ちでご参加されませんか?
ご家庭での平素の朝時のお勤めを一緒にお勤めいたします。輪(りん)の打ち方や、念珠の持ち方もご一緒にしますので自然と覚えます。
また、ご参加いただきますと念珠の一珠をお渡しして、24珠で単念珠が、108珠で二連念珠ができるようにご用意しています。(親珠には「妙華寺」の寺院名が刻印されています)

 

日曜学校念珠IMG_1154