四季の花

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Processed with MOLDIV ※これまでの蓮

四季の花 梅雨の間の晴れ間、今日、蓮の蕾が膨らみました。開花が近いと思います。毎年7月のお盆の頃に開花しますが今年はとても早いです。お寺参りにこられた時にお楽しみください。他にも境内には紫色の花も多く咲いています。

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Processed with MOLDIV ※今日の蓮

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Processed with MOLDIV ※紫色の花

命日

命日
毎月、故人の亡くなられた日を「命日」と言います。また「忌日」とも言います。亡くなられた月の命日を祥月命日と言い、他の月々の命日を月命日、月忌とも言うそうです。
私たちは生まれた日を誕生日と言いお祝いをしますが、ずいぶん前に「誕生」とは「うそがうまれる」という意味もあることを聞きました。私たちがこの世に生まれ、生きていく上で嘘もつかなければ生きていくことができない存在であることを私に教えていただいています。では、「命日」は「いのちの日」と言うことはどのような意味があるのか考えています。中国では亡くなられた時にその人の評価が定まると考えられていると聞きました。日本でもそのように考える場合もありますし、死後に災いが起こらないように祀(まつ)ることもありました。年忌と言うと故人の祥月命日を縁として行う法要で、亡くなられて1年後を1周忌、その次の年を3回忌(亡くなられた年から数えて)その後7回忌、13回忌、17回忌、23回忌、27回忌、33回忌、50回忌とお勤めをします。以降は50年毎に行われます。真宗では、故人を縁として仏法に出遇い、阿弥陀如来の恩徳に報謝する場でもあります。
そして考えて見ると、大切な方の33回忌に遇えることは、大切な方が亡くなられてから32年後のことであります。それも数えてみると8度目の年忌であります。その間のご遺族の皆様のご苦労に大変頭が下がりますが、今の時代は親御様の遠い年忌に遇うことができにくい時代です。その仏縁に遇う慶びは大きいものと思います。

 以前、「忌日」について、忌まわしいと言う字が含まれていますがと尋ねられました。
私の大切な方が亡くなられた時、亡くなられたことをすぐには受け入れがたい心があります。亡くなられてからも生きているように感じる心もあります。しかし、私から離れた方の死について、不浄なものと考えてしまう気持ちも出てくる場合があります。高田派の鑑学の先生が、「大切な方の忌日を勤めるのは、私自身(己の心)の中にある仏道に修しているという思いを改めて省みる日である」と述べられたことを思い出します。
 真宗では親鸞聖人のご命日を縁としてお勤めする報恩講があります。高田本山では毎年1月9日から16日までお勤めいたします。各寺院も毎年一番大切な行事としてお勤めしています。(妙華寺では今年から12月の第1日曜日です)
私の大切な方のご命日も、私が仏法に出遇い、阿弥陀如来の恩徳に報謝する大切なご縁であったことに間違いないことです。
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グリーフケア公開講座

グリーフケア公開講座 第5回の講師は、作編曲家の山下達也氏でした。アメリカ留学から10年前に帰国し今日お話しされる「音楽による悲嘆の癒やし」を考察されていたそうです。講師は主に映像を伴う音楽を作編曲されています。音楽は耳で聞くものですが、「聞く」行為は「見る」行為に比べて情報を処理する能力が、1/10とか1/8と言われているようです。その為、時には純粋で心が揺さぶれやすくなる側面と、物事の本質のみを捉えようと感覚が研ぎ澄まされる側面があるようです。音楽が悲嘆の癒やしに値するのか作る側からの話を聞きました。エンターテイメントとしての音楽は、多くの人を楽しませるよう作られているので個々の立場や感情に寄り添った作り方は採用されにくいようです。良質のエンターテイメントを作る時、聞き手の感情をある程度コントロールする作り方が必要になり、他者に感情をコントロールされて得られるものは、「癒やし」と言えません。
リラックスの為の音楽は、緊張やストレスへの対処であり、癒やしのための音楽は、悲嘆への対処であるべきと思うが間違えやすいところであるようです。世の中の音楽の多くはエンターテイメントでの使用を想定した音楽(クラッシックも含めて)で、その他の音楽として、宗教音楽、童謡、民謡が候補になりますが現代の人々には馴染みの曲は少ない。そのような状況でも「癒やし」となる音楽は存在すると講師は話されました。エンターテイメントの音楽にも制作者に感情や解釈を決めつけられず自由な聞き方できたりする音楽が「癒やしの音楽」になり得るものでそれぞれが見つけてほしいとまとめられました。中川個人は音楽に詳しくはありませんが、今回の講演を聞く前には、音楽に「癒やし」は当然あると思っていました。これまでも好きな歌がありドライブしながら何度も聞きながら、またコンサートで音楽を聴き涙することもあり癒やされたと思っていました。でもこれって癒やしというのでなく、音楽に酔っていたのか、依存していたのかどうなんでしょうか。「癒やし」として考えるのであれば私に寄り添っている音楽は? 私に伝わってくる音楽は?というのでしょうか。個人により私に伝わる音楽は勿論違いますので、音楽の楽しみ方が新たに増えたような楽しい講演でした。
最後に、日本テレマン協会の創始者でもありオーボエ奏者の延原武春氏も参加され、講師が「癒やしの音楽」になり得ると感じる音楽をお聴かせ頂きました。
※中川個人の感想です。

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生活の中の仏教のことば

「祈願(きがん)」
神・仏に『どうぞたのみます』と心を込めてお願いする行為が祈願です。初詣はその代表的な習俗といえましょう。
しかし、親鸞聖人は、この祈願を「わたしたちの願いは、自分勝手なことばかりであること。仏さまは、そのような私の心をすべてお見通しであることだから」と教えて否定されました。
だから、私たちは必ず救うと約束された仏さまの誓願に「お念仏を申すばかりなり」とうなずいて、お参りするほかありません。

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葬儀について

お寺葬についての1day講座を受講しました。
葬儀については、地域性も含めて、色んな側面があり議論に何時間費やしても切りが無いように感じるが、亡くなられた方にもご遺族にも大切なものであることは間違いないと思う。今、お寺での葬儀について関心が持たれているのは、セレモニーホールでの葬儀が当たり前になっている現状があるからであろう。
私の地域でも今はセレモニーホールでの葬儀がほとんどであるが、ほんの少し前までは、自宅(地域により自宅での葬儀が地区の集会場であったり)や、お寺が葬儀会場であった。
それより以前は、埋葬する場所で葬儀を行っていたと聞いている。
お寺(僧侶)として葬儀に関わる時は、大切な方がご往生された時にご遺族から連絡を受けて枕勤めに伺い、通夜・葬儀についての日時を、火葬場の都合やお寺の法務の都合を考えながら決めることで葬儀の場所がどこであろうがさほど変わらない。しかし、自分の身内が亡くなった時のことで考えると、医師から死亡診断書を手渡されて、遺体をどこに安置するか(移動の件や葬儀の場所も含めて)、役所に死亡届けを提出して、火葬の時間を決めるに当たり、葬儀の時間(その前日の通夜の時間)を決めることや遺体の衛生面と納棺をどのようにするか。往生したことをお知らせする範囲について。葬儀式の飾りなどの費用、(もちろん葬儀を執行する僧侶への法礼)についても限られた時間で決めなければならない。葬儀に関わる一連のことが終わると、役所へ死亡届け以外の届けも2週間以内にしなければいけない。大切なことを一度に間違いなくしなければいけないので大変である。昭和55年に往生した前々住職の時は、棺桶の購入と葬儀の飾りと霊柩車の手配は葬儀社に依頼したが他のことは親戚を含めた家族(遺族)が分担して行った。当時24才の私も前々住職の遺体を自分の車の後部席に乗せ叔父と運んだり(死亡診断書を手元に持って)、ドライアイスを買いに走ったり、父と市役所へ行き色んな手続きをしていた。納棺も子どもや兄弟が行っていた。私の地域ではそのようなことがその時代では当たり前であった。平成22年に往生した前住職の時は、遺体の搬送、棺桶の購入や納棺、葬儀の飾りや火葬場の時間と霊柩車の手配を葬儀社に依頼した。30年の月日の移ろいの中で、いろんな事情も含めて遺族や親戚が行うことがずいぶん少なくなった。
それでも、ご遺族は悲しみの中、時間に追われて色んな事を決めていかなければいけないことで大変であることに変わりない。
ご遺族の大変さは多岐にわたりまた大変さはぞれぞれ違うけれど、ご遺族に寄り添うことができる僧侶としてありたいと思う。
セミナーを受講した時に『住職の教科書基礎編(上)(下)』を手にした。「未来の住職塾」で学んだことが書かれていると思っていたら3年前の学びより深くまた新しい科目も含まれいてた。ちょうど法人の年度報告書を県に提出する時でもあり、またしっかり学び直さなければいけないと感じている。
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6月の日曜学校

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6月の日曜学校では、お寺の鳴り物についてお話ししました。
お寺の境内に梵鐘があります。行事への参集の合図で法会の30分前から打ち始めます。また、お寺によって、毎日、時の鐘として鳴り響くことや、除夜の鐘として大晦日に鳴り響くことも有名です。
本堂内には、高座の横に磐(けい)が掛かり、磐枚(けいまい)の柄の端を垂直に保ちながら軽く打ちます。高座に着座してお経や式文を拝読するときに使います。
内陣の住職の席に砂張(さはり)があり、 打棒で、砂張の外側上部をすりあげるように打つよう聞いています。妙華寺では、衆徒席に大鏧(だいきん)があり、こちらも鏧の外側上部をすりあげるように打つよう聞いています。
本堂の裏に梵鐘の小さな形の喚鐘(かんしょう)が釣られおり、法会開始の時に打つ始めます。
お経を拝読する時に、音木(おんぎ)を使います。音木はかるく持ち平行に打ち合わせると聞いています。打ち方に1つ拍子、三つ拍子(中・小・大)がありお経の文字横に大・中・小の●印で打ち方が示されています。
 また大きな法会では楽人衆が奏でる雅楽も本堂内に満ちあふれます。
他にも葬儀式などで、引鏧(いんきん)、銅鑼(どら)、鐃鈸(にょはち)の鳴り物を使うお寺もあります。
お寺で使う鳴り物は、法会への合図であったり、始まりや終わりを示したり、共に読誦(どくじゅ)する拍子であったり、法会に集う共々が一緒に阿弥陀様を讃嘆する助けとしてあるようです。
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 妙華寺のお同行様の書かれた『惑わしの笛』(安津見磐著・小学館スクウェア)を昨年お贈りいただきました。本編に関係はありませんが、ペンネームに「磐」と名告られていて、音楽評論家でもあり、音を奏でるものに大変な思い入れがある方で、以前親御様の年回の時に、本堂の磐の写真を撮りたいと申された時の写真が、「あとがき」の部分に掲載されています。
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ひとくち法話

「名号」とは「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)」のことです。阿弥陀さまの「み名」です。阿弥陀さまは私たちに、「どうかお願いだから私の名をよんでおくれよ。必ず救うから。南無阿弥陀仏を受け取って安心しておくれ。きっと浄土(じょうど)へ迎え取るから」と呼んでくださいます。
今、私たちが、その呼び声に応えて「南無阿弥陀仏」と称えたら、もう浄土へ生まれていく人生が決まるんです。もう迷わないでいい。何故なら、南無阿弥陀仏のみ名は、われわれの往生(おうじょう)に何の心配もないと言って下さる如来さまの言葉ですから。
「お前たちの、名をあげたい、得(とく)したい、人に勝ちたいという煩悩(ぼんのう)や、迷いは障(さわ)りにならぬから、安心して南無阿弥陀仏を受け取っておくれ」との呼び声が南無阿弥陀仏です。
体から噴(ふ)き出る欲や、怒りや、愚痴(ぐち)などをいっぱい抱えている私たちですが、なに1つ自分で処理することが出来ない。その出来ない私たちをそのままに如来さまが抱き取って下さるから、今の私のままで浄土への道を歩ましていただくことが出来るのです。迷いのない人生がそこに開かれるのです。
私たちが、南無阿弥陀仏と称える時、阿弥陀如来が、お浄土から6字の言葉にまでなって、私たち1人1人のいのちの底にまで届いてくださるのです。「今日も命を頂いてありがとうございます。南無阿弥陀仏」「他人の昇進を恨んだこのあさましい私でした。南無阿弥陀仏」「嫁にどぎつく言い過ぎた恥ずかしい私でした。南無阿弥陀仏」
お念仏(名号)を称えるということは、いつも如来さまと一緒に日暮らしするということであり、教えに遇(あ)っていることであり、光に遇っていることです。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

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グリーフケア公開講座

グリーフケア公開講座 第4回の講師は神戸赤十字病院の心療内科の村上典子医師でした。医師として「悲嘆に寄り添う」経験をお話しいただきました。ご遺族の思いは本当にさまざまで悲嘆反応のプロセスとしてあげられる項目も順番どうりではなく、グリーフケアのサポートをする側も注意する点があるようです。何気なく発する言葉が、時にはご遺族を傷つけてしまうこともあります。言葉は慎重にかけるように心がけなければいけないことが大切です。悲嘆の状態は誰にでもあることですが、うつ病やPTSD・心身症などの症状とも似ていることもあり複雑である場合もあるので専門家とのつながりも欠かせないようです。村上先生の考えるグリーフケアのポイントを7つほど示され、私(住職)の中で大切と感じたのは、「抑制され、遺族自身も気づいていない悲嘆がある」ことでその時は「不用意に悲嘆に踏み込まない」こと。「遺族のニーズに合わせる」こと。「ケアする側の限界を知る」ことで「必要な場合は専門家へ」つなげることなどたくさんの学びがありました。
また、村上先生の勤務されていらっしゃる赤十字病院の活動には災害医療があり、JR福知山線脱線事故の活動から得られた経験を元にして「日本DORT研究会」が設立され、災害現場おける死亡者の家族支援や長期にわたる遺族支援のネットワーク作りに取り組まれています。
講演が終わり、司会の鍋島師が村上先生のお話の中のご遺族の心情の中で、「後悔するのは愛があったから」と言うことを取り上げられ、悲嘆の反応にはさまざまな側面があることを改めて感じました。
※中川個人の感想です。

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祖師寿のお祝い

高田派婦人連合大会で女性の祖師寿の方の表彰がございました。ご都合で出席できないお同行様へ表彰状と記念品が届きました。
改めて「祖師寿になられておめでとうございます。これまでと同様に親鸞聖人の「み教え」を共々お喜び申しましょう」
祖師寿についてはご本人またはご家族から菩提寺へお申し込みをしていただきます。詳しくは、年末に発行しています「寺報」をご確認ください。
このことを励みにされていらつしゃる方もたくさんいらっしゃいます。 来年は昭和3年(1928)生まれの方が該当になります。

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四季の花

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四季の花 6月も多くの花が咲いています。雨の日に目立つのは紫陽花です。虎の尾、下野草、クチナシもきれいです。蓮に蕾がつくのかも楽しみであります。

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