高田のなりたち

高田のなりたち
私(住職)は、高田教団のなりたちについて改めて学び直しています。簡単でありますがHPに記載します。
親鸞聖人が越後から関東に移られたのは、健保2年(1214)のことであります。以降20年間にわたって茨城・栃木方面に念仏をひろめられ、教えがひろまるにつれて、念仏によって結ばれた人達がリーダー格の人を中心に集団をつくるように、それぞれの集団はその地域の名をとって、横曽根門徒・鹿島門徒とか呼ばれるようになりました。中でも下野国(栃木県)高田の真佛上人を中心とする高田門徒は最も有力な教団(集団)でありました。  高田には、如来堂があり、親鸞聖人の布教の根拠地となっていました。この如来堂は親鸞聖人が建立されたものと伝え「高田建立」の伝説になって来ましたが、恐らく聖人が関東に入られる以前からあったものでありましょう。高田は古来浄土信仰の地であったと考えられます。
真佛上人は、もと武士の出であったと考えられ、(親鸞)聖人より36歳年下で、若い頃から聖人に帰依して僧となり、聖人第1の高弟として深い信頼を得ておられました。(真佛)上人は高田に安住された方ではなく、極めて多方面に行脚され伝道に努められました。その足跡は遠く奥州(青森県)にまで及んでおります。
高田の教団が初期の真宗教団に於いて中心的地位を占めていたのは、1つにはこの真佛上人の深い法徳によるものでありました。現在、埼玉県の蓮田に「真佛報恩塔」という巨大な石碑が残っていますが、これは真佛上人54年忌に際して、お徳を慕う近在の門徒が150貫文という莫大なお金を集めて建立したものです。

親鸞聖人は60歳頃関東を出て京都へお帰りになり、以後の関東教団は真佛上人が中心でありましたが、(親鸞)聖人86歳の時、惜しくも50歳で先立たれました。あとを継いで高田を護られたのが顕智上人であります。顕智上人は真佛上人の17歳年下でありましたが、共に親鸞聖人面授の直弟(じきてい)として信任あつく、弘長2年(1262)聖人の入滅に際してはその葬送の指揮をとられ、大谷本廟の造成に大きな力をつくされたのみならず、その護持にも心魂を砕かれたのであります。
この大谷本廟が今日の本願寺となって発展したのですから、(顕智)上人は真宗教団の大恩人であると申せますし、高田教団が真宗の根本であるという意味が一層はっきり致しましょう。
顕智上人はまさに俊足の方で、各地を行脚され、北陸・東海地方まで教線を格調されましたので、高田の勢威はいよいよ振るいました。
親鸞聖人が関東におられる間に聖人の化風(けふう)を慕う門徒の数は何万にも達しましたけれども、聖人には御自分の教団を作るお気持ちは全くありませんでした。真佛・顕智両上人もこの宗祖のお心を忠実に継承されましたから、高田教団は自分の教団であるとか、自分が高田門徒の統率者であるなどというお考えは毛頭お持ちになっていませんでした。このことは、やがて高田門徒の主導権を他に譲ることにもなり易かったのであります。
※参考資料【高田婦人要典】昭和46年3月15日発行