善光寺の一光三尊仏

善光寺の一光三尊仏ご開帳
コロナ下で1年遅れて今年4月3日から6月29日まで信濃の善光寺で7年に一度の「善光寺前立本尊(一光三尊仏)」のご開帳が開催されています。
私は、高田派の住職なので一光三尊仏と言えば、高田の本寺(栃木県)の如来堂の一光三尊仏が頭に浮かびます。本寺の一光三尊仏は、親鸞聖人が流罪をゆるされ、関東へ行く途中に善光寺聖として、勧進をしていた時の三尊さんとも言い伝えられています。善光寺の本尊に「親鸞松」と呼ばれる松1本を供えているとも聞いたことがあり親しさを感じています。高田派の寺院にも、善光寺如来絵伝やそれに高田に伝えられた一光三尊仏の掛軸・一光三尊仏像が伝えられています。高田派の本寺の一光三尊仏のご開扉は17年に一度で、8年後の2030年(令和12年)と記憶しています。
私(住職)にとっても善光寺は訪れたいお寺の1つでした。2009(平成21年)前々回のご開帳の時に家族で行った時のことを思い出します。

※7年に一度は数えで数えるので本当は、6年目が次のご開帳年
高田派の17年に一度も同様に16年目が次のご開扉年

【善光寺ご開帳のHP】から
「善光寺に伝わる歴史と信仰の物語宗派を超えて親しまれる善光寺。その成り立ちや阿弥陀如来信仰を伝える物語を抜粋してご紹介します。善光寺縁起 昔、天竺(インド)の大金持ち、月蓋(がっかい)長者が阿弥陀如来によって一人娘・如是姫(にょぜひめ)の病気を治してもらったことを喜び、阿弥陀如来のお姿を「一光三尊像」にして祀っていました。その仏像は時を経て、朝鮮半島の百済へ。そして日本の欽明天皇のもとに、仏教とともにもたらされました。しかし、後に悪い病気が流行った時、物部氏によって難波の堀江に捨てられてしまいました。それを拾い上げたのが信濃の人、本田善光(よしみつ)。善光は故郷の麻績郷(現在の飯田市)にお連れし、さらに阿弥陀如来のお告げに従い、現在の地にお堂を建てて安置しました。それが絶対秘仏である御本尊であり、善光寺のはじまりなのです。

牛に引かれて善光寺参り昔、信濃国小県の里に心の貧しいおばあさんが住んでいました。ある日、川で布を洗い干していると一頭の牛が現れ、角に布を引っかけて走り出しました。その牛を追いかけて、おばあさんがたどり着いたのが善光寺。日が暮れてお堂に入ってみると、光明に照らされた牛のよだれが「牛とのみ思いすごすな 仏の道に汝を導く己の心を」と読めました。すると、おばあさんはすっかり信心深い人間に生まれ変わりました。後日、近くの観音堂に詣でると、観音様の足元にあの布が。おばあさんは牛は仏様の化身と知り、ますます善光寺への信仰を深め、めでたく極楽往生をとげました。この仏様が小諸の布引観音といわれています。((https://www.gokaicho.com/about/about/ 参照 2022年4月16日))

「御開帳とは七年に一度、絶対秘仏である御本尊の御身代わり 「前立本尊」(鎌倉時代・重要文化財)を本堂にお迎えして行う「善光寺前立本尊御開帳」。仏都の春、御仏とのありがたいご縁が生まれます。善光寺の御本尊「一光三尊(いっこうさんぞん)阿弥陀如来」は、ひとつの光背の中央に阿弥陀如来、向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩が並ぶ、善光寺独特のお姿をされています。白雉5(654)年以来の絶対秘仏であり、鎌倉時代に御本尊の御身代わりとして「前立本尊」が造られました。普段は御宝庫に安置されていますが、七年に一度の御開帳の時だけ、特別にお姿を拝むことが叶います。前立本尊中央の阿弥陀如来の右手に結ばれた金糸は五色の糸に変わり、白い「善の綱」として、本堂前の回向柱に結ばれます。その回向柱に触れることは、前立本尊に触れるのと同じこと。ここにありがたいご縁が生まれ、その功徳ははかりしれません。
回向柱に触れて 如来さまとのありがたい結縁回向柱とは、御開帳期間中に本堂前に立てられる高さ約10mの柱です。前立本尊の御手と「善の綱」によって結ばれるため、回向柱に触れることは前立本尊に触れるのと同じ御利益があるといわれます。
松代から寄進される回向柱300年余の歴史、脈々と今に宝永4(1707)年に現本堂が再建された際、松代藩が幕府から普請の監督を任されました。それが縁となり、回向柱は現在まで300年余にわたって松代から寄進されています。松代から善光寺へ回向柱は、大名行列や姫行列とともに松代町を練り歩いた後、善光寺にやってきます。途中引き綱に触ると御利益があるといわれ、沿道にはたくさんの人がつめかけます。」((https://www.gokaicho.com/about/gokaicho/ 参照 2022年4月16日))

【妙華寺の一光三尊仏】