和讃

 和讃をご紹介いたします。和讃について多くの参考書がありますが、『注解 国宝 三帖和讃』常磐井鸞猶著と『浄土和讃講話』川瀬和敬著より紹介します。
浄土和讃 讃阿弥陀仏偈和讃24首
若不生者の誓いゆへ 信楽まことに時至り
一念慶喜する人は 往生かならず定まりぬ
  迷える人を救い得ずば我も仏にならじとの弥陀の誓願の故に、ようやく信心の開ける時がめぐり来て、信じ得た喜びに浸る人は、浄土への往生が誤りなく決定(けつじょう)している。
※若不生者は、第18願に「若不生者 不取正覚(もしうまれずは、正覚を取らじ)」と誓われたことを指す。
※信楽は、聖人の自釈(尊号真像銘文)に「信楽といふは、如来の本願真実にましますを、二心なく深く信じて疑はぬ」こととある。
※一念慶喜は、一たび思念する意味から極めて短い時間を指す。ここでは信の一念の意で、信心を得て念仏せんとする一瞬の心の動き。その時湧き上がる喜びが一念慶喜。以上 【注解 国宝 三帖和讃 常磐井鸞猶著より】
 「若不生者 不取正覚」は、およそたぐいまれなる金言です。正覚者なればこそ、言えることばであり、正覚の本質を語り尽くしています。汝がなければ我はない、汝によって我が成り立つのが、正覚者の極意です。正覚者の誓願はすでに成就されているがゆえに誓願なのです。もし誓願がなければ一切は止み世界は崩れますが、そうさせないのが誓願です。誓願は時機を待ちます。衆生には必ず誓願の開ける時がきます。悪戦苦闘の果てにふっと訪れます。信心がまことでなければなりません。まことの心である至心信心が呼びさまされます。はっと気づいたのが一念です。それは私の考えている時間ではないのです。永劫の時間ととろけあうような、如来の時間というべきものです。私の考えている時間ならば、それが過ぎ去ることに痛みを感ぜしめます。消えていくようないのちでなく、時を与える如来のいのちのふき出したものが一念です。一念はとらえられませんが、無量寿としてのよろこびです。如来の誓いが信を通してよろこびとなった人は往生者としての必至の約束ができたのです。
誓いが成就しているのですから、往生も成就しています。臨終を待つには及びません。往生は今においてあるわけですが、「往生定まりぬ」として、今と言わぬところが、宗教性の奥床しさです。その時が来るまでお預けというのでなくして、後の時に譲りつつ、今それがあるというよりもっとたしかなのです。定まったのが今であるから確認ができるのです。
以上【浄土和讃講話 川瀬和敬著より】
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