和讃

和讃をご紹介いたします。和讃について多くの参考書がありますが、『注解 国宝 三帖和讃』常磐井鸞猶著と『浄土高僧和讃講話』川瀬和敬著より紹介します。

浄土高僧和讃 源空聖人 第04首

曠劫多生の間にも 出離の強縁知らざりき
本師源空いまさずば この度空なしく過ぎなまし

久遠の昔から幾度となく生まれ変わって、この世に生を受けた間にも、煩悩の束縛から解き放つ強力な働きかけを知らずに過ごして来た。わが師源空上人がおられずしては、今のこの生涯も、空しく過ぎてしまったことであろう。

多生は、幾度も生まれ変わること。
出離の強縁は、迷いの世界から抜け出るための強力なよりどころ。強縁は増上縁と同じで、弥陀の本願を指す。
「な」は、完了を表わす「ぬ」の未然形である。

以上 【注解 国宝 三帖和讃 常磐井鸞猶著より】

はかり知れない過去遠々より、生まれ変わり死に変わりして迷いの生死を繰り返しつつも、今日に至るまでこの生死より出で離れる強い縁となるところの本願力に遇うことなくして過ぎました。もしもここに本師源空がこの土にいでまさなくしては、このたびのかけがえのない一生も、手を空しくして過ぎ終わるという絶望的な悲しみにさいなまれることでありましょう。
生死流転の身であったことを知るのは、生死を出離することのできたときに、はじめてその恐ろしさに目覚めるのです。源空自らも叡山にあって日にち念仏しつつも、その念仏でたすかったというところに身をおくことができずに、いらいらしていたのです。
もだえ苦しみを『黒谷上人語灯録』巻15のうえに聞きましょう。
(『黒谷上人語灯録』巻15略)
悲しみの極まりにおいて、善導の文言が眼を射たのです。何度も通過しつつ、今はじめていのちが燃えたのです。本願の念仏に触れて、善導の声を聞いたのです。たすかりたいの念仏でなく、たすけられてあることのかたじけなさが、本願によって証知されたのです。源空の善導一師としての仰ぎ方は、ここに根拠があるのです。一声一声の念仏を通して、如来から摂取不捨と捨てられていないとの感知は、善導と源空との出遇いを呼び起こし、更に具体的にあざやかな形で、源空と祖聖とのめぐり遇いのうえに将来されたのです。本願念仏の人には智慧光の力があって、道を求める人を招き寄せずにはおきません。

以上【浄土高僧和讃講話 川瀬和敬著より】