和讃

和讃をご紹介いたします。和讃について多くの参考書がありますが、『注解 国宝 三帖和讃』常磐井鸞猶著と『浄土高僧和讃講話』川瀬和敬著より紹介します。

浄土高僧和讃 善導禅師 06首

佛号むねと修すれども 現世を祈る行者おば
これも雑修と名づけてぞ 千中无一と嫌はるる

弥陀の名号を中心として称名行を行っていても、現世利益を得ようとして祈る念佛者は、これも雑修と名づけて、千人中一人も浄土に生まれることはできないと善導大師はお嫌いになる。

佛号は、佛の名号
むねは、主要なもの。本旨。中心。
現世は、この世の幸福を祈り求める。
千中无一は、『往生礼讃』に見える。原文は「雑を修し、至心ならざれば、千が中に一つも無し」
以上 【注解 国宝 三帖和讃 常磐井鸞猶著より】

第4行の左訓は「千が中に一人も生まれずとなり、懐感(えかん)禅師の釈には、万不一生と釈せられたり」です。『往生礼讃』に、「雑を修し、至心ならざれば、千が中に一つも無し」とある所です。懐感(えかん)禅師の『釈浄土群疑論』巻四には、善導禅師の言葉として、「雑修の者は、万に一人も生まれず、専修の人は、千に一人の失無し」とあります。
弥陀の名号をわき目もふらず称えていても、その称名によって現世の利益を祈る思いのある念仏行者は、前の助正並修と同じく雑修と名づけて、そのような称え方では千人の中一人も浄土に生まれることはできないと、善導大師はきらい排除されます。
念仏することがそのまま往生の道であり、念仏は如来の願いであると聞きつつも、そこに現世の祈りをこめずにおれないのは、自力の執心の根深さによります。「本願の嘉号を以て己が善根とする」との執情は、離れ難いものがあります。現世を祈る延長線上に浄土を妄想することになります。しかも念仏しつつあれば、現世を祈ることが虚仮であったと知られてきます。そこには長い手間がかかります。現世の祈りが通じないような念仏ならば無用であるとの短兵急なる人があっても、ゆるやかになだめて、念仏の人は人間の思いを超えて最高の位置に立たしめられることを、よく語らなければなりません。現世は浄土より照らされて初めて意味をもちます。

以上【浄土高僧和讃講話 川瀬和敬著より】