二月の聞法

二月の聞法

2月13日の高田本山での布教伝道研修会に伺うことができました。1年ぶりで、布教使を目指されている若い方のご法話をお聞かせいただきました。限られた時間ですが法話をまとめるにあたって推敲された見えない時間を思うと頭がさがります。若い方の法話を受けてのご講師先生の感話がいつも心に残ります。今回は作法や言葉について今伝わっているものことをもう一度問い直していくこと、難しいことですが「伝統を問い直す」ことの大切さをお教えいただきました。

17日は、正覚寺様の第818回の紫雲会に伺うことができました。今月は葛野(かどの)洋明先生のお話で、充実した1日と感じています。『浄土真宗の救いのよろこび』の一節「阿弥陀如来の本願は かならず救うまかせよと 南無阿弥陀仏のみ名となり たえず私によびかけます」から「本願」と「喚び声」について丁寧にお話くださいました。私(住職)に既にアミダさんの働きが届いているのにまだその時でないと思っている私(住職)にお聞かせいただくのです。何度聞いてもその時は「そうだ」とうなづくのですが、すぐさま忘れてしまっている私(住職)がいます。だから聞法が大切なのだと思います。

21日は、高田本山で開催された真宗教団連合中勢ブロック研修会に伺うことができました。
小畑正文師の「世の中安穏なれ 仏法ひろまれ」と親鸞聖人のご消息からの講題で、宗教問題と現実問題の中で個人の姿勢が問われていることについて、真宗教団連合が設立されたこと立教開宗の意義を改めてお話されました。先生の真宗に出遇われたお話からこれまでの生き方を振り返って、「他者のいのち」を思いやることや、如来の「はたらき」が私の問題として届いているか、現実問題を語ると政治的なことにも関わってきます。生きている中で「耐える」と「我慢」の見方もお教えいただきました。最後の質問者との応対も真摯ですが笑いもありとても有意義な90分でした。

27日は、星野哲氏の『人口減少社会から考える「お寺」という場の可能性』の講演に参加しました。隣市の「次代につながるお寺と地域のご縁を真剣に考える講演会」と銘打った、地方都市で開催されるのは珍しい講演会でした。参加者は、一般の方、行政関係者、お寺の僧侶・寺族で30名弱くらい、一般の方とお寺関係者の割合は半分・半分のようでした。講師の星野さんは、社会デザインの研究から、墓や葬儀の変化に関心をもたれ、終活・ライフエンディング分野の取材、研究をされ、活躍されています。お寺を社会資源の面からこれからどのような活動が期待されているかのお話でした。
これまでにお寺と僧侶に対する批判は古くからあります。一般の生活者からお寺や僧侶を見て感じる事は、世間からすると非常識なことが多いからだと思います。しかし、不安な気持ちになったりする時に、お寺や僧侶に期待をしたい気持ちも少しはあるようです。
社会問題として人口消滅などの観点から寺院消滅・無縁遺骨などの課題も現実的になりお寺を取り巻く環境は以前にも増して厳しくなっています。このような現状をふまえながら、お寺(寺院)の社会的資源として4つ(時間・空間・人的・「教え」)の可能性のお話でした。お寺の存在が昔のような地域での重要な拠点として認識されることは、地域コミュニティが崩壊している時代では難しいかも分かりませんが、それでも地域のハブとして活動できる場になり得ることを講師が全国の寺院を取材されきた事例から紹介されました。また、一寺院でできないこともネットワークでつながる寺院としてできることもありますし、地域の他の業種との連携などさまざまな取り組みを紹介されました。講師がお寺や僧侶に期待する3つのA(Awareness Accompany Action)の紹介と共に、これまでの取材から、一寺院で今すぐ(今日から)できるお寺の活動として、「Temple Morning」 や 「朝のお勤め」の呼びかけ 、「おてらおやつクラブ」の紹介もあり、僧侶が、地域で実践(活動)することを進められました。
また、活動をする中で関わる方の居場所や役割をお寺の何に求められているのか知ることにもなります。今後は、講師の専門である終活・ライフエンディングの立場から、地域包括ケアシステム・WHOの緩和ケア定義の「スピリチュアル」の分野での活動として地域の医療や介護・士業とのハブの存在としてお寺のあり方を考えることも提案されました。
講師は全国の活動的なお寺を取材で回っていてその紹介寺院に知り合いの寺院(僧侶・寺族)がスクリーンに映し出されるのが新鮮でした。

28日は、自宅にて、葬儀・法事についての僧侶のオンライン勉強会に参加できました。私(住職)にとってオンラインのうれしいことは、会場へ足を運ばなくてもよいところです。地方都市に住んでいますので関心のある僧侶の勉強会などの多くは都会で開催されています。半日、1日、ともすれば前泊したり、後泊したり比較的時間がとれそうな平日でも参加がかなわない時もあります。自宅のパソコンの前で全国の僧侶と勉強ができることはとても有難い時間です。
今回は、九州福岡の浄土真宗本願寺派のお寺の「葬儀」と「法事」の5つの工夫の取り組みの発表を聞き、自坊の「葬儀」と「法事」に照らし合わせて質疑応答の時間でした。参加僧侶は、宮城県・石川県・愛知県・岡山県・広島県・愛媛県・福岡県・熊本県・・三重県(私)など地域、宗派は違いますが「葬儀」や「法事」について関心がある僧侶15名の参加でした。数年前、同じ塾で学んだ僧侶の元気なお顔も拝見で良かったです。
事例発表するには、「葬儀」「法事」の言語化が必要です。「葬儀」や「法事」をお勤めしているだけでは言語化できません。お勤めした「葬儀」「法事」を振り返りながら課題を洗い出しそこに工夫された実践が大切だと思います。
私(住職)が一番素晴らしいと思ったことは、相手(お同行様)の立場を考えた視点を一番に据えられていることです。相手(お同行様)のことを考えながら実は自分のことを中心にしてしまう私(住職)がいます。
発表や発言を通して、若い時の頃を思い出しました。祖父(前々住職)や父(前住職)が健在であった私(住職)が20代の頃、お勤めにお同行様の自宅へ伺い、何をお話したらよいか、不安で随分悩んだ時期がありました。その頃は相手のお同行様が私(住職)に何かと気遣い(お育て)いただいたことと今は感じています。他者と接するのが苦手な私ですが、法事は大切な方の「いのち」を通して自分の「いのち」のことを考えたり、仏のはたらきをお伝えする場ですので、「み教え」についてお話することでお同行の皆さんと関係ができてきたことを感謝しています。そこには長い時間(お寺とその方との時間)も大切な条件と思います。
私が20代初めの頃、前々住職が、「僧侶の姿でお同行の自宅にいけば、仏間の上座に案内されるが、普段着で行けば玄関での対応」のような言葉を聞いたことを思い出します。 他にも「葬儀や法事で僧侶にお辞儀をされるのは、袈裟にお辞儀をされていることを忘れてはいけない」とか古くからある戒めの言葉ですが、どこか間違えてしまうことが多いので僧侶の批判があるのでしょうね。

ある僧侶から出た質問で、「自死のご遺族との関係をどのように築いていくか」は、考えされられた1つでした。自死された方の葬儀や法事について、どのような死であっても同じであることは教義などを確認し、押さえることが大切なことですが、実際の葬儀や法事の場で自死された方のご家族であっても想いは一括りにはできません。自死された方の親の立場・子の立場・配偶者の立場、兄弟の立場それぞれ想いが違います。自死された息子の棺(ひつぎ)に向かって「こんな姿になってしまいました」と一言発してだけの母親に私は言葉が見つかりませんでした。違うご遺族の時に、お勤めしながら感情が揺れて涙が止まらずお勤めにならなかった時もありました。その場面だけ切り取られたらきっと僧侶失格みたいに捉えられると思います。それでも、その家の法事が続いていく中で少しずつ話(関係性)ができる場合もあります。時間が解決することではありませんが、自分の人生(「いのち」)と照らし合わせ大切な方の「いのち」に想いをはせていくことは、発表された葬儀・法事の5つの工夫にあたるのかなと思ったりします。
今回の勉強会で私(住職)の葬儀や法事を振り返ってみたいと思います。

※2月に入り外出時にマスクをするようになりましたが、どこのお店でも購入することが出来ずにこれまで家にあったマスクが少なくなって慌てています。