「諦めの価値」から

「諦めの価値」森 博嗣 著 朝日新書
お気に入りの著者の本を読んでいます。日常生活で「諦める」という言葉から感じるのは「ネガティブ」な気持ちではないでしょうか。

日常生活の中で「諦める」は、「夢を諦める」など、とても見込みがない、「しかたがないと思い切る。断念する」の意で使っています。
一方、仏教でこの言葉は、あきらかにする。まこと。真理。の意で使うことが多いです。

諦める とても見込みがない、しかたがないと思い切る。断念する。
      明らかにする意味もあるが最近はあまり使わない(岩波 国語辞典)

 諦 つまびらか。あきらか。 つまびらかにする。あきらかにする。まこと。真理。
   あきらめる。思い切る。断念する。(角川 新字源)

お釈迦様の教えに「四諦(したい)」という言葉があります。
【四諦】とは、「苦」の原因を探り、さとりを手に入れるための真理です。

「諦」とは、真理のこと。人間には、四苦八苦と呼ばれるさまざまな苦しみがあります。それらの「苦」から自由になるための道筋を、ブッダは4つに分けて説明します。

①苦諦 「一切は苦である」という真理。人間は四苦(生老病死)など、逃れることのできない苦を背負っています。人生とは思い通りにならないもので、これを理解することが仏教の大前提となります。

②集諦(じったい) 「苦の原因は煩悩(ぼんのう)にある」という真理。そもそも「私」や「私のもの」には実体がないにも関わらず、人はそれらにこだわり、執着します。そのため、煩悩が生じて、「苦」が生まれるのです。

③滅諦(めったい)「煩悩を滅すれば安らぎが得られる」という真理。「『苦』の原因は煩悩である」ということは、すなわち、「煩悩を乗り越えれば『苦』から自由になることができる」ということであります。

④道諦(どうたい) 「苦を滅する方法がある」という真理。正しい修行をすれば「苦」の輪廻(りんね)から解き放たれ、解脱(げだつ)の状態に至ることができます。その実践法を語るのが、「八正道」です。

【「とってもやさしい はじめての仏教」 公益財団法人仏教伝道協会より】

※諦(たい)は梵語サティアの意訳で真実、真理の意。釈尊の最初の説法の内容とされ、仏教の根本教理に数えられる。苦諦と集諦は迷いの世界の結果と原因、滅諦と道諦は悟りの世界の結果と原因を示したものである。

この本(「諦めの価値」)では、世間の価値観として「諦め」がネガティブと捉えられていることに、決してそうでないことを論じていると思います。
精神論で「夢をつかむことは、諦めないこと」と語りますが、夢をつかむ過程で、諦めている(選択)していることに気づくことなんだと教えているように受けとめました。

著書の中で「「諦めなければ夢は実現する」という言葉は、精確には間違っているかもしれない。むしろ「諦め続けることで、夢は実現する」の方が現実に近い、何度も挑戦し、何度も諦めることで自分が成長する、という要素があって初めて、夢が実現する場合がほとんどだからだ」と述べられていたり、「自分が「必要だ」あるいは「大事だ」と思い込んでいるものを「諦める」ことが含まれているだろう。なにしろ、自分の周囲に存在するものに比べて、自分が選択できるものは僅かしかない。なにかを得るためには、多くを諦める必要に迫られる。これは、石や木を削って仏像を掘り出す作業に似ている。切り捨てないと、なにものも見えてこない。ものを作る行為は、同時に大部分を捨てる作業でもあり、ここで必要なのが、自信のコントロールなのである」他にも、「人間の最大の武器は「考える」能力である。諦めるためには、考えなければならない。考えることを避けている状態が、「諦めない」という頑固な姿勢なのだ。(中略)大勢が「絶対諦めない」という信念で生きていたら、世の中はどうなるのか? おそらく争いや戦争が絶えないだろう。相手を尊重し、譲り合い、平和な社会を築くには、自身の直近的な利益や感情的満足を「諦める」ことが必要であり、そうすることで、結局はもっと大きな利益を手に入れることができる」など私(住職)には考えさせられるところでした。

このようなことを考えると「諦め」には、「選択」も含まれているように感じるのは、私(住職)だけでしょうか。

選択(せんじゃく・浄土宗はせんちゃく)(浄土真宗辞典)
選び取り、選び捨てるの意 
法然は、「選択本願念仏集」の「本願章」で、『大阿弥陀経』に出る「選択」の語について「選択とはすなはちこれ摂取の義なり。いはく210億の諸仏の浄土のなかにおいて、人天の悪を捨て人天の善を取り、国土の醜を捨て、国土の好を取るなり」と述べている。そして、『大経』に出る「摂取」の語との関係について、「選択と摂取とその言異なりといえども、その意これ同じ」と示し、さらに阿弥陀仏の48願における選択摂取の義を論じつつ、称名念仏の意義をあきらかにしている。