ひとくち法話

01 人身(じんしん)受けがたし
私がいまここにいることが、摩訶不思議です。広い地球の、広い日本の、広い三重県のここに、人のいのちを享(う)けて、いまをいきています。この父、この母を縁にして生まれてきました。この父が別人だったら、この母と夫婦の契りがなかったら、私は永遠に生まれてくることはありませんでした。この不思議としかいいようのない因縁は、親と子という2世代だけのものでなく、無始以来の先祖までさかのぼっていきます。
報恩講に拝読する『式文』の中に「盲亀浮木(もうきふぼく)」のたとえ話があります。いつも大海の底にいて、100年に一回海面に浮き上がってきた時にたまたま穴のあいた浮木(うきき)にぶつかって、その穴に亀の首がはまったという話です。人間にうまれてくること、ほとけの教えにあうということは、これほどのできごとだというたとえであります。実際にこんなチャンスがありましょうか。ありえないことがあったという話です。その証拠が、いまここに生きている私であると教えられています。
『法句経』に、「人の生をうくるはかたく やがて死すべきものの いまあるいのちは ありがたし」という聖語があります。
再び生まれてくることのない私、一回きりのいのちを「どう生きるのが本当か」がわからなくては、永劫(ようごう)に迷っていかねばなりませと、親鸞聖人はお念仏の教えを生涯説いていかれました。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より
2016-02-23ひとくち法話③FullSizeRender