ひとくち法話

ひとくち法話 聖徳太子2

日本最初の摂政(にほんさいしょのせっしょう)
太子が15歳の時、「法興(ほうこう)」と年号が改まりました。仏教の教えからつけられたのです。
しかし、崇峻天皇(すしゅんてんのう)5年(592)、執政の衝突から蘇我馬子(そがのうまこ)に天皇が暗殺される事件が起こりました。このような複雑な時代の中で、太子は成長されていかれたのでした。
次に即位されたのは、女帝の推古天皇(すいこてんのう)です。そこで太子(20歳)が摂政として選ばれました。
『皇太子聖徳奉讃(こうたいししょうとくほうさん)』(第56首)に
儲君(ちょくん)のくらいをさづけしに 仏法興隆(ぶっぽうこうりゅう)のためにとて
  再三固辞(さいさんこじ)せしめたまひしに 天皇(てんのう)これをゆるされず
とあります。「儲君」とは皇太子におなりになる位です。太子は仏法興隆のためには役立たないと「再三かたく辞退されましたが、天皇はこれを許されず」ということで、摂政(天皇をお助けするお役目)になられたのです。我が国では聖徳太子が最初です。
太子には「豊聡耳(とよとみみ)」というお名前があります。よきさとい耳を持っておられたという意味です。また一度に8人の訴えを聞かれたので「八耳(はちじ)」の王ともいわれました。人々の訴えを正しく理解するためにしっかりと本音を聞かなければならないとして、私たち人間の心を照らし出すほとけの教えに、いつも耳をかたむけられたのでした。
このような聖徳太子の善政によって当時の内乱は見事に治まったのでありました。