先日、聖人が、当時の今様である「和讃」を作られたことの思いについてお聞かせ頂きました。
高田の勤行の際に用いる和讃は、「浄土和讃」と「浄土高僧和讃」は、聖人自筆の部分を含む真仏上人の書写本と
「正像末法和讃」は、顕智書写本を用いています。
「浄土和讃」の最初の和讃は、讃阿弥陀仏偈和讃とあります。
「弥陀成仏のこのかたは
いまに十劫をへたまへり
法身の光輪きわもなく
世の盲冥をてらすなり」
阿弥陀仏が本来の自己たる仏御自身におなりになってから、十劫という永いあいだ、休むことなく今日に至っております。
みのりを感じ、みのりによって動かされ、みのりをみずからの身とする仏の御身の、その全体が光で有り
光ははかりなく転輪し、それが限りなく輪をひろげ、娑婆世界の無明の闇を照らしたもうものであります。
まなこくらむものに、それをあわれみ知らしめようとの慈悲の光であります。
『浄土和讃講話』 川瀬 和敬著 法蔵館