和讃をご紹介いたします。和讃について多くの参考書がありますが、『正像末法和讃講話』川瀬和敬著より紹介します。
『正像末法和讃』第53首
弥陀大悲の誓願を ふかく信ぜむ(ん)人はみな
ねてもさめてもへだてなく 南無阿弥陀仏を(と)となふべし
顕智書写本では「南無阿弥陀仏ととなふべし」とあり、文明本には「をとなふべし」と変わりますのは、聖人の御苦心の存するところとうかがいます。しかもこの「ねてもさめてもへだてなく」は、私どもの生き方が強く問われます。「ねても」というのは、寝るときということだろうか、「さめても」というのは醒めたならばすぐにお念仏称えるということだろうか。そうでなしに寝ているときも称えるということだろうか。これがやれなければ、聖人を慕うような顔をしておってもはじまらない。その方がどれほど尊い方であっても、私がその道を歩むことができなければ、褒めているそのことがおかしい、自分と関係のない人を立派な人といっておっても、これははかないことになります。そういう苦しみをもって思念を続けていますと、「唯除睡時常臆念」こういう言葉をみつけたのです。これは善導の『往生礼讃』の言葉です。善導がわが身に輝いた新しい生命、仏のおんいのちを讃えまつるという『往生礼賛』、そのなかに、「眠っておるときは別にして、常に臆念する」とあります。もとの『観経』「第三観」の「唯除睡時恒臆此事」をよくおよみになったということです。これで解決ができたというのではないのですが、ある一角から光がさし込んだというところです。
もう一つ、『西方指南抄』(中本)にでるところの「もし声はなるるとき、念すなはち懈怠するが故に、常恒に称唱すれば、すなはち念相続す」と。「声はなるるとき」というのは、南無阿弥陀仏の声が途絶えると「念すなはち懈怠す」。この「念」というのは如来に思われて私が如来を思う、如来と私の思い合いです。これが「臆念」です。「懈怠」というのは「なまける」、「途切れる」ということです。だから「常恒に称唱すれば、すなはち念相続す」と。念仏の声が途絶えると、阿弥陀と私とのつながりが途切れてしまう。これが法然上人です。南無阿弥陀仏という声をはなれたら、私らは阿弥陀と直結しなくなる。ここまで念仏中心です。「懈怠」ということを嫌われたわけです。ところが親鸞聖人は、「われらは善人にもあらず、賢人にもあらず、精進なる心もなし、懈怠の心のみにして」といわれる。「精進の心もなし」。しかも与えられた南無阿弥陀仏によって、精進のできぬ身に、精進の心と力を感得するのであります。
以上【正像末法和讃講話 川瀬和敬著より】