お寺の掲示板
「外野席」に座ったまま人生を終える人
『大往生できる人 できない人』潔く、とらわれず、おまかせして生きる 田畑正久著 から
著書では、「 私たちは「合理的で客観的な思考」ができるのが有能な人間である、と学校教育ですり込まれます。この思考法がすべてと思ってしまうと2つの点で問題があります。1つは、「この考え方(合理的で客観的な思考)を極めていけば、善・悪の判断もきちんとできて、みなが仕合わせになれる」と幻想を抱いてしまうこと。もう1つは、合理主義という「理知分別」だけでは、「うれしい、悲しい、寂しい」といった「感情の部分」がほとんど抜け落ちてしまうのです」と述べられています。
「私」と「周囲の出来事」を切り離すことで、いつの間にか「傍観者的な人生」を歩んでしまうことになります。傍観者の良い面は、自分が責められないこと、自分というものを問われないことです。しかし、そこには「本当に生きた」という実感がなくなる危険があるのです。
「自分が問われる」ことを、仏教では「内観」といいます。自分の姿が仏の光に照らし出されてはっきりする。
※最近は、外部からの情報が多すぎて、自己の中で消化できずに人ごとのように「傍観者的な意見」を発してしまう場合があります。
いつも感じることですが、自分を見つめることはとても難しいです。しかし、自分の姿を映し出していただくはたらきに遇うと、恥ずかしい姿であったとはっきり見つめることができます。