ひとくち法話

老いを華やぐ
「としどしにわが悲しみは深くして いよいよ華やぐいのちなりけり」岡本かの子
私たちは暮らしながらに老いていきます。だんだん歯が抜け、腰やひざが痛くなり、耳も遠くなっていく。老いていく悲しみばかりなのに、岡本かの子は、「いよいよ華やぐ」と歌っています。限られた人生を歩き、人生を生きる。求めざるに、老いに「オイ」とポンと肩を叩かれて仰天する。仰天するんでなしに、後ろから近づいてくる老いを静かに眺めて、来るんならいつでもどうぞと言える生き方ならすばらしい歓びです。
私たちはそのためには、自分の老いを作り上げねばなりません。体の老いに抗することはできませんが、私の人生の生きようまで老いに押さえられてはなりません。人間の脳細胞は使わなければますます退化していくと言われています。70過ぎてからでも何かをする、新しいものに意欲を燃やす、趣味に生きる、みな老いを転換する方法です。しかし所詮この転換も本質的解決になりません。
岡本かの子は、実は親鸞聖人から華やぐいのちの歓びを頂いて生きていかれます。すばらしい芸術的素質を持ちながら、自己の煩悩にさいなまれ、夫一平の愛欲にも翻弄されていた彼女は、聖人の苦悩と煩悩に満ちた生涯、人間的な人柄にのめりこんでいきます。聖人の徹底した自己否定と自己批判、そこから生まれる凡夫の自覚を通してこそ他力念仏の道が開かれると教えられます。
人生の後半、望まずして必ず対面する老いにしろ、人間は与えられた宿命を背負いながら、自分の人生を歩く以外にどうすることもできない存在ですから、素直にそのままうなづいていくことが老いを超えていくことになるとおっしゃています。
※「ひとくち法話」真宗高田派本山より

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