「むなしさ」の味わい方

「むなしさ」の味わい方
還暦を過ぎてから、集中して本を読むことが難しくなりました。
1冊を何ヶ月もかけて読んでいますと、読んだはずの部分があやふやになったりして、最初のページに戻って読んだりしています。『「むなしさ」の味わい方』の本もそうでした。著者は、きたやま おさむ氏で、精神科医でありますが、作詞家としても有名です。私(住職)が小学校から中学に入学する頃だったと思いますが、フォーク・クルセダーズの一員で、作詞を担当して他のミュージシャンへも提供されていました。
本の題名にひかれたのは、私(住職)自身が「むなしい」想いを感じているからなんだと想います。私の心の内にある、「間(ま)」というか、無意識の世界にもつながる「むなしさ」に振り回されることもありますが、「むなしさ」は、決して無くなるものではないこと。それであるならば、味わっていこうとすることが大切ではと問いかけています。
本の帯に「失くしたものが見つからなかったとしても、築いたものが壊れたとしても、人から裏切られたとしても、そこに「むなしさ」を感じている、かけがえのない「私」が見つかることだけは、確かな事実なのです」とあります。
生活する中で幾度となく感じる「むなしさ」に、あらがったり、絶望を感じたりしながら生きている。その中で、「味わう」ことができる心(感性)を模索していることが生きていることなんでしょうか。まだまだ考えながら生きていくのだと思います。
※中川個人の感想です。

真宗入門講座

真宗入門講座
強風と豪雨の中での開催でした。
昨年から始まった高田本山に伝わる「親鸞伝絵」の各段の紹介が続いています。
今回は、「信心諍論」の段でした。前回と同じように、法然門下での議論が描かれています。この段は、他力の「信心」についての議論で、法然聖人の「信心」と弟子の親鸞の「信心」が同じであるか無いかと言う、真宗において一番大切な議論と思います。
私たちは、師匠と弟子とか、智慧があるものとそうでないものなど区別して判断をしてしまいがちですが、「他力の信心」は、阿弥陀さまから賜った「信心」ですので、誰とも区別なく同じであるのですが、明言できるでしょうか。真宗門徒の手前味噌になってしまいますが、親鸞聖人が本当に法然聖人の教えをいただいていたことの証になる段です。
「自力の信心」は「他力の信心」までも疑ってしまうとの講師の言葉が胸に残りました。
お同行の方も講座に参加されていました。
今回の講師は、妙華寺の副住職でしたが、諸事情で中村研究員になりました。
※中川個人の感想です。

感謝

感謝

仏教で、「感謝」の表現を「御陰さま(で)」と使われます。また、「報恩」も「頂いている恩に気づく事(知恩)ができたら、今度は、自分も誰かに恩を送ること(報恩)」も使われています。

サンドイッチマンの「病院ラジオ」を視聴しました。病院で1日臨時ラジオ番組を映像(TV)放送してます。病院内ですので、入院患者や通院患者さんが話す言葉を病院内にいる医療関係者や患者さん家族などが聞いている映像が流れます。必ず「感謝」の言葉がでます。病気を通して医療従事者や家族や自分を支えている方への感謝で溢れています。とても、苦しい時間を共有する中で生まれてくる感謝だと思います。

さて、私は日常生活の中で「感謝」をしているでしょうか。本当は、当たり前で無く、「有難い」ことであったとしても、これが当たり前であると感じたり、この日常が当然であれば「感謝」の心は起きないでしょう。
「感謝」を気づかせてもらえるのは何なんでしょう。
やはり、当たり前でなかったと気づく時なのかな。何が当たり前でなかったのか。
そもそもで言うならば、私の存在そのものでないでしょうか。
今、私が生きていることがどんなに当たり前でなかったか。その時の状況によって「感謝」したり「不機嫌」になったりするのでしょうが、「生きてきたこと」へは、「ありがとう」と言いたい心は残っているのでしょうか。

私(住職)自身も幼い時にもしかしたら命が終わっていたかもしれません。20歳頃も命が終わっていたかもしれない事故にもあっています。その当時は「ラッキー」の一言で済ましていましたが、何かのきっかけで、その状況を思い浮かべると今でも心臓がどきどきして苦しくなります。

「マインドフルネス」の中で、「感謝」を相手に伝えることの大切さを学びました。
既に、父(前住職)は、往生していましたが、母(前坊守)は一緒に生活をしていました。還暦近くの子ども(住職)が、母に「ありがとう」を伝えるのに恥ずかしさもありましたが、手紙にして渡しました。後日、母から「ありがとう」と言われた時はやっぱりうれしかったし、今も宝物の言葉です。

 

あたりまえ

あたりまえ

お寺では、連綿と続けられている形の1つにお勤め(勤行)があります。朝・夕のお勤めが基本ですが、自宅のお仏壇で「お勤めの時間がとれない場合は、どうしたらよいのですか」とお尋ねがあります。時間に追われる私たちは以前に比べて、朝夕のお勤めの時間が取れない場合もうなづくこともできます。「お勤めができない場合は、手を合わせる(お念仏)だけでも結構ですよ」「時間がとれる時に、お仏壇の前でお勤めをされたらどうですか」とお答えさせていただいています。

私(住職)は、どんなに多忙でも、朝起きると、顔を洗います。歯磨きをします。それをしないと1日が始まらないような気持ちです。寝る前にも同様に、顔を洗い、歯磨きをすることが習慣になっています。いつから始めたかはっきりと覚えていませんが、小さな時から教えられて続けているからなんだと思います。

お念仏もお勤めも、習慣になれば時間がとれない中で工夫をして続けられるのではないかなと思うのですが、どうでしょう。ただ、習慣としてお勤めすることで良しとするかは、「門前の小僧 習わぬ経を読む」の喩えのように、環境の与える影響力の大きさだけで判断するのもおかしなものです。やはり、どうして、「私がお勤めをするのか」を知ることが大切なのではないでしょうか。

講演会「専修寺聖教に見る法然遺文」

講演会
三重県地域文化財総合活性化事業で「専修寺聖教」の修理活用事業の一環として毎年講演会が開催されています。今年は「専修寺聖教に見る法然遺文」と題して、高田派鑑学の清水谷正尊師の講演がありました。専修寺には、親鸞聖人を含めて歴代上人の書かれ大切にされてきた宝物(国宝を含めた重要文化財指定文書など)が数多くあります。

その中で法然聖人の行実などを記した書物が残されています。『西方指南抄』は、親鸞聖人が師匠の法然聖人の教えの行実を記されています。『西方指南抄』や法然聖人の教えが記された他の書物にも、法然上人を祖師としている浄土宗寺院に存在する行実以外も記されていまのでとても貴重です。また、専修寺以外の高田派寺院にも法然聖人に関する書物や掛物も存在してことは、法然聖人を大切にしてきた親鸞聖人の思いを高田の歴代上人や高田派寺院が継いでいらつしゃるようにも感じます。

今後、文化財保存修理を終えたもの以外も宝物館で紹介されるようです。

仏涅槃図について

仏涅槃図について
本日15日まで妙華寺の西余間(向かって左側の余間)仏涅槃図が、に荘厳されています。

仏涅槃図について紹介します。
「涅槃」は、梵語でnirvana と書き、吹き消すこと、消滅の意をあらわし、転じて、煩悩を滅却して絶対自由になった状態をいい、さらに進んで、釈迦または聖者の死を意味するようになった。
釈迦の入滅の時期については、紀元前543年ごろ・同483年ごろ・同383年ごろとするなど諸説があって一定しない。釈迦は29歳のとき出家し、まず山中に入って6年間苦行生活を送ったがその空しさを知り、ボードガヤーの菩提樹の下で静かに瞑想をこらして、ついに前人未踏の悟りを開いた。以後40余年間、インド各地を巡歴し多くの人々を教化、ヴァイシャーリー近くのヴェーヌ村に至って重い病にかかった。一説によると、この病はパーパー村の鍛冶屋のチュンダの捧げた食事で中毒したのだという。病は一度回復したが、再び重くなり、クシナガラのキレン河のほとり、沙羅双樹の間で入滅した。涅槃図はこの場面を描いた図である。
涅槃図の典拠となる経典等の類には、40巻本『大般涅槃経』・『大般涅槃経後分』・『仏般泥洹経』・『長阿含経』・3巻本『大般涅槃経』・『般泥洹経』・『摩訶摩耶経』・『仏母経』・『仏所行讃』・『仏祖統紀』等があり、日本の涅槃図を理解するには、恵心僧都と明恵上人の撰した両『涅槃講式』が重要な位置を占める。
日本では、涅槃に関係した美術作品は、ほとんどが絵画で、彫刻はきわめて少ない。全体に日本では仏伝美術(釈迦の伝記にテーマにした美術)はあまり発展しなかったが、それは日本の仏教がほとんど大乗仏教として受容されたことと関係があるらしく、仏伝美術は、釈迦の誕生を誕生釈迦と称して彫刻であらわし、釈迦の死を涅槃図と称して絵画であらわすことによって、仏伝を釈迦の生と死の二大事件で代表てしまった感がある。そして、誕生仏と涅槃図は、日本で発展した仏教のすべての宗派が、寺の必需品として寺ごとに備え、誕生仏は、4月8日の灌仏会の、涅槃図は2月15日の涅槃会の各本尊として用いたので、今日まで残る作品は両方とも多く、とくに涅槃図は現存する仏画のうちで、もっとも多い。従って優品もまた豊富に残っている。
【日本の美術9】より

東日本大震災から13年

東日本大震災から13年
今年は、元日に令和6年能登半島地震が起こり、あらためて地震について考えさせられます。私(住職)自身が地震の揺れが大きいと感じたのは、阪神淡路大震災の震度4です。ベットで寝ている時間で、縦揺れを感じ、横揺れになりました。東日本大震災は、震度は2程度と思いますが、長期の横揺れに少し気分が悪くなるような感じでした。
今年の能登半島地震は、縦揺れから横揺れで、地震が収まってから本堂に行くと、天井から釣り下げてある輪灯などがゆれていました。熊本地震は揺れを感じませんでした。他にも、揺れを感じた地震もありましたが、それほど身に危険を感じることがありません。これまでの私の経験した揺れでは、本当の地震の恐ろしさは経験していないのと同じだと感じています。

ですが、自分事として、災害が起きた時に「お寺としてできること、宗教者としてできること」を、考えることも大切だと感じています。しかし、私の中で、いつ来るかわからない災害に、ある時、緊張が薄れてしまうことも現実です。

その時、自分にできることをすることを継続していきたいです。

 


先日、お寺で使う香を求めました。
お寺で使う香は沈水香木を刻んだもので、私(住職)は、伽羅(きゃら)や沈香(じんこう)・白檀(びゃくだん)しか知りませんでしたが香のカタログを見ていましたら、アフリカやアジアの国々に18種類もあるようです。丁子・甘松(かんしょう)・桂皮・竜脳・麝香の名前は、聞いたことがありますが、香に入るとは思っていませんでした。初めて聞く名前が10種類もあり驚くばかりです。
これらを刻んで、調合したりすると多くの薫りが生まれるのでしょうね。「聞香」と言葉がありますが、私(住職)には、聞き分けることは難しそうです。

日本には、仏教伝来とともに香がはいってきたようで、仏教儀式に使われていたようです。桃山時代に香道の規矩が整い、江戸初期に完成の域に達したようです。線香の製造技術は、江戸時代に中国から伝わり、広く普及して今に至ります。

お寺とは③

お寺とは③
生活者から見えるお寺とはどのようなものでしょうか。
生活者とお寺がかかわることはどのような時でしょうか。
小さいころに生活圏にお寺があって境内に入ったことなどはあるかもしれませんが、お寺の住職(宗教者)とかかわるのは、生活者自身の大切な方が亡くなった時に葬儀を依頼することが最初ではないでしょうか。
多くの場合、亡くなられた方の葬儀の前に枕勤めや通夜があり葬儀の後、初七日など続けてお勤めがあります。中陰49日や初盆そして一周忌や三回忌と亡くなられた方の法要でお寺との関係が構築されてきます。生活者は亡くなられた方の供養としてお勤めをする認識ですが、住職(宗教者)は、亡くなられた方の「いのち」終える姿を通して、仏教や宗祖(親鸞)の教えから仏徳讃嘆させていただいています。
ですので、生活者が亡くなられた方の「供養」についてどのように感じるかで、お寺への関わり方が違ってくるようです。
また、これまでの「志」や「布施」についての認識も、お勤めをサービス業的な対価として認識されるような変化も感じます。
生活者がお寺をサービス業として関わるのであれば、宗教法人の「目的」である、『この法人は、真宗高田派宗制により、宗祖親鸞聖人の立教開宗の本義に基づき、教義をひろめ、儀式行事を行い、信者を教化育成して公共の福祉に寄興し、その他この寺院の目的達成のために、必要な礼拝の施設、その他財産の維持管理その他の業務及び事業を行うことを目的とする』に向かうことは難しいでしょう。
更に、サービスと捉えられると、対価への評価や不要と考えられれば、サービスを求めない選択肢が生まれます。また、お寺と生活者の関係も、これまでと違い、家単位でなく個人単位の関係となると感じています。

これから、仏教も日本文化として捉えてみると、必要とする方だけのもになのかもわかりません。茶道や華道・書道・武道など多くの日本人が「道」として身につけていたものとして、興味や関心がある方しか目をむけないものに向かっているようにも感じます。

新たな視点で、仏教や真宗の教えを求める方もいらっしゃいます。お寺や住職(宗教者)に、社会貢献とかソーシャルキャピタルの視点で、またお寺を観光や文化的資源として応援をしてくださる組織や個人も増えているように感じています。
「おてらおやつクラブ」「災害時の宗教施設の開放」「福祉仏教からの寺院活動」「久居城下案内人の会の活動」などに賛同して、妙華寺でも取り組んでいます。

昔のお寺や住職(宗教者)のイメージだけでない、新しいイメージも伝える必要が大切であるようです。しかし、多くの生活者は、お寺や宗教者にそれほど期待をしていないことも現実です。

3月のお茶

3月のお茶
3月は、ひな祭りや卒業をお祝いしてのお茶がふるまわれたりします。裏千家では、炉から五徳を外して、釣り釜の点前の月でもあります。柄杓を釜に据える時にゆれる風情をどのように感じるかも面白いです。3月28日の利休忌に卒業や新しい人生のスタートを利休居士に報告するのも茶人にとってはうれしい時間です。

お寺の茶室は、祖父がお茶を楽しんでいたこともあり、昭和48年に祖父が建て替えた書院の一室(四畳半)に炉が切られました。また、祖父母が晩年居住していた家屋にも四畳半の茶室があり、親戚や家族でお茶をいただきました。平成22年に祖父母の居住していた家屋の場所を茶室として立て替えました。裏千家のメインの「咄々斎」写しの茶室と、祖父の四畳半の茶室の写し(床の間の床柱や明り取りなど同じ形)の間に水屋も作りました。